白地に赤く染め抜かれた日の丸は、そのデザインの美しさは世界の国旗のなかでも一番だと思います。
日の丸は、明治の外国人の目にも美しく見えたようです。
日章旗から派生したのが旭日旗です。
太陽信仰からすれば、世界の各地で同じようなデザインが存在します。
どこぞの国は、そのデザインに事あるごとに文句を言っています。
正しい日章旗と旭日旗の知識を持ちたいものです。
https://youtu.be/DbPzKH07Cp4

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日本には隋や唐からも、インド、ベトナム、新羅、渤海などからも遣日使が押し寄せて来ていました。
あの有名な小野妹子が日本に帰国する際には、32隻もの大船団がついてきたそうです。
9~19世紀の日本では、遣唐使などよりも遣日使のほうが多かったのです。
なぜこのことを教えないのでしょう。
「飛鳥時代から平安時代にかけ遣隋使、遣唐使の派遣目的は隋や唐から先進文化を取り入れるためである。」
日本の教科書は、基本的にこのように記述しています。
しかし、歴史学者と言われる人々は、遣唐使の何倍もの遣日使が来ている事実を見逃しています。(故意に見逃した?)
特に、最初の遣隋使を派遣するに当たり、聖徳太子が小野妹子に持たせた国書のあの有名な文言は象徴的です。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつ)が無きや」を見れば、当時の力関係は台頭だったのです。
太子の書を不快に思った煬帝は、この遣隋使への返礼として大使裴世高を小野妹子に同行させ、隋の冊封体制に組み入れようと試みたのですが失敗に終わります。
小野妹子は、隋の皇帝の返書を求められた際には「無くしました」と聖徳太子に応えています。
素晴らしい外交術です。
これ以降、日本は常にチャイナとは対等な関係です。
忘れてはならないことですが日本と唐は対等でしたが、百済は兄弟国であり、新羅に対しては宗主国でした。
高句麗はチャイナの地方政権のようなものです。
朝鮮は、チャイナを宗主国として仰ぎ、自らは日本の兄と称して格付けに躍起ですが、歴史的証拠も無くて、滑稽というしかありませんね。
ちなみに、日本からあちらに行った人たちは、帰れなくなった人を除いて、みんなこちらに帰ってきたそうです。
現在でも、チャイナから多くの人が日本にやって来て住むのに、その反対は?
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2018年09月19日 17時02分 時事通信
西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。
藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。
県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。
面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。
村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。
西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。
この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。
『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。
【時事通信社】
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地元の人が活用できてうれしいです。
他にも同様のモノがあるので、徐々に放出します。
このブログでも、どんどん紹介しますので、のぞいてみて下さい。
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