石田三成

関ヶ原の実質的な西軍リーダーは、佐和山城主の石田三成。

敗れたあとに三成は捕縛され、京都の六条河原で首を刎ねられた。
意外なことに三成の嫡男・重家は、仏門に入ることで助命され、名を宗享と改め京都妙心寺・寿聖院の住持となっている。
ただ、僧侶の身なので妻帯は許されず、子孫を残せぬまま貞享3(1686)年に没した。
しかし、それで三成の血脈が途絶えたわけではなかった。
意外にも都から遠く離れた東北は津軽の地に、その血筋が続いているのである。

しかもなんと、藩主津軽氏の嫡流になっているのだ。
津軽藩は関ヶ原合戦後、三成の遺児を密かに領内にかくまっている。
藩祖津軽為信が、三成に多大な恩義があったからだ。

為信は、関ヶ原合戦で西軍が敗北すると、三成の次男重成とその妹(姉とする説もあり)辰姫(曽野とも)を大坂城から密かに連れ出した。辰姫については、合戦の褒美として徳川家から賜った上野国勢多郡大館(現群馬県太田市)で内々に養育した。やがて彼女が成人すると、為信は次男の側室とした。

この次男こそ、二代藩主となる信枚であった。
元和5(1619)年、辰姫は信枚の子・信義を産むが、信枚の正室・満天姫(家康の養女)に男児がなかったことから、信枚の歿した寛永8(1631)年、信義が三代藩主に就任する。すなわち、三成の孫が津軽藩主になったわけだ。

歴史は謎だらけですね。

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九戸城

九戸城を研究している方からいただいた資料がどうしても出てきません。
今は故人となっている方なので、資料の確認ができません。
内容は、九戸戦に際して伊達家から富山某が九戸側に使いにやってきたというものです。
ご存じの方は教えてください。



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浄法寺城

カシオペア地域で九戸城に匹敵する規模を誇るのが「浄法寺城」です。
二戸市浄法寺町の安比川左岸、南東方向に張り出した丘陵上(比高40-50m)に位置する平山城で、
新城館・西館・大館・八幡館の4郭からなる多館式の城館です

八幡館は東西250m×南北100mほど、大館は東西130m×南北140m、新城館は東西280m×南北150m、西館は東西150m×南北170mほどあり、
どの郭もこれだけで城ができるほど巨大な郭が連続します。
各郭は堀で分断され、特に八幡館・大館間の堀は幅20m・深さ10-15mはありそうな巨大な堀で、近世には鹿角街道が通る交通の要衝でした。

城主浄法寺氏は鎌倉御家人畠山氏の庶流とされます。
一説には元久2(1205)年、畠山重忠とその子重保・重秀が鎌倉幕府に対して謀反を企てたとして誅殺され、出家していた三男重慶が難を逃れて浄法寺に下向し土着したと伝えられます。
また一説には「奥州藤原攻め」で軍功のあった畠山重忠の弟重宗に二戸郡が宛がわれ、
その後 重宗の嫡子が早世し嗣子がなかったため、鎌倉浄法寺で出家していた重慶が還俗して重宗の跡目を継いだとする説もあります。

いずれにしても鎌倉初期、安比川流域に進出した畠山氏は浄法寺氏を称して、勢力を拡大する過程で浄法寺城を築いたと考えられます。
室町期、浄法寺氏の事績は不明ですが、安比川流域に松岡・田山・大森氏等の庶流を配置し南部氏からも客将として認知され独立した在地勢力に成長しました。

天正19(1591)年に勃発した「九戸の乱」で浄法寺修理重安は当初、日和見を決め込み行動を起こしませんでしたが、最終的には南部信直方に与して、姉帯城・根曽利城攻めに参陣しています。
一族の中には「九戸城」に与した勢力もあったようで、一族の血筋を残すために戦国期にはよく見られる行動です。(真田家など)

天正20(1592)年、秀吉の一国一城令により浄法寺城は破却されますが、浄法寺修理は南部氏から5000石を宛がわれ、外様領主として南部氏の家臣団に組み込まれます。
慶長2(1597)年には盛岡城築城の普請5奉行に任ぜられています。
慶長5(1600)年、南部家の和賀地方統治に反対する「和賀の乱」が勃発し、重安の子重好は鎮圧のため和賀の岩崎城へ出陣します。
南部利直は対陣中に陣を引き払い三戸へ戻ります。この際、浄法寺重好に和賀に残るように命じました。
しかし、和賀を任された重好は部下を残したまま無断で浄法寺に帰ってしまい、翌春に和賀に戻ります。
慶長8(1603)年、乱の終結後に重好の行動が戦陣の規律を破ったとされ、浄法寺氏は改易処分となったと伝わっています。

南部領内でも有数の大身者・浄法寺氏の改易は大事件なはずですが、その後の記録はほとんど残されていません。
大きな謎と思うのは管理人だけでしょうか?。

sieojoboji

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開拓使仮学校

日本の野球史を調べているうちに、札幌農学校の前身である開拓使仮学校を調べています。
なかでも、彼らに野球を教えたベイツ氏に興味があります。
わずか21歳で亡くなっていますね。
どこかに写真が残っていませんかね。

jarigakkou

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好球生は誰だ!

訳あって母校野球部の100年史を執筆しました。
10年以上前の事でした。
その時に出会った「好球生」のペンネームで、明治の野球来歴のヒントを残してくれた謎の人物。
おそらくは田中舘愛橘博士と同世代と思われる、その人物が謎です。
どうしても知りたくなりました。
調査を再開します。

ちなみに、岩手県人で野球に最初に出会ったのは田中舘愛橘です。
でも、当時は青森県だったので青森県初でしょうか。

aikitu



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