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世捨て人の雑感

岩手県北部のことを中心に、漆芸、郷土史、書籍のことなど綴ります。

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西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館

2018年09月19日 17時02分 時事通信

西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館


福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。

藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。 

書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。

県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。 

安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。

面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。 

村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。

西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。 

西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。

この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。 

落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。

『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。 

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城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした

「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」

 南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。

 少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、城内は一転して静寂に包まれていた。中に入ると、厚さが約40センチもある門扉の内側に、進入を阻むための土嚢(どのう)ががっちりと積まれていたのを覚えている。

 南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造りの平屋の民家が多かったが、どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。

 「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。

 当時の軍隊に欠かせない馬を管理する任務を帯び、前線部隊と行動をともにしてきた城は、戦闘の様子をつぶさに見てきた。

 多数の死傷者を出しながらも11月中旬に上海を攻略した日本軍は、長江(揚子江)の上流約300キロにある南京を目指した。当時、中華民国の首都だった南京は周囲を堅牢(けんろう)な城壁で囲まれ、約20の門があった。

 中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。

 上海攻略戦で杭州湾に敵前上陸した第6師団も、南京に向けて敵と交戦しながら進軍。南京の南側から攻撃に参加した。

 「それは激しか戦いでした」。城らの前には、高さ20メートルほどのれんが造りの城壁がそそり立っていた。城壁に構えた敵陣地からの攻撃、城壁の前に横たわった水濠(すいごう)が行く手を阻んだ。  

「重砲や野砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」
 戦後、東京裁判はこう断定した。

 「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1カ月で2万の強姦(ごうかん)事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」

 その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る。

 「城内では遺体も見とらんです」

 上海から南京に進軍する途中では、中国人の遺体を目撃している。塹壕(ざんごう)で何十人の中国兵が死んでいることもあった。

 「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」

 進軍は不眠不休で続き、夜が明けると敵兵約30人が目の前を歩いていたこともある。夜間に敵と交戦した後、同じ連隊の兵士が「多くの敵を斬った」と話しているのを聞いたこともあった。1週間ほど滞在した南京でも何かあれば仲間内で当然耳に入るはずだが、虐殺は一切聞いていない。

 城が所属した第6師団は熊本で編成された精鋭部隊で、中国では「世界で一番強い」と恐れられていた、という。その師団の一員だったことは、城らの誇りだった。だが、南京攻略時に師団長だった中将、谷寿(ひさ)夫は戦後、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。

 「哀れですばい。師団長は何もしとらんのに」

 城は憤りを隠せない。77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。

 「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進していく。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」

 戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。間もなく99歳を迎える城は、無数のしわが刻まれた手をかざしながら仲間の無念を代弁する。

 「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶(おとし)められるのは我慢ならんです」

 「抗戦勝利70年の今年こそ、南京市内の道路の名称には『抗戦』の要素をより多く取り入れるべきだ」

 南京市を省都とする江蘇省の行政諮問機関、政治協商会議(政協)の常務委員、徐菊英は先月、こんな提案を行った。

 「南京大虐殺記念館」と建設中の「抗戦勝利記念館」を結ぶ道を「抗戦路」と名付けるなど道路への命名は今年、相次ぎ行われる見通しだ。「南京事件」の生存者として“証言”した「李秀英」ら市民の名前を冠する案もある。

 「辛徳貝格路」との案もある。デンマーク出身の実業家で、1930年代に南京郊外のセメント工場に赴任した「シンドバーグ」の当て字だ。旧日本軍による攻略時に、2万人近い南京市民を工場などにかくまったという。昨年4月にはデンマーク女王、マルグレーテ2世が外国元首として初めて「南京大虐殺記念館」を訪問した。シンドバーグの逸話を手がかりに女王の南京訪問を要請したようだ。デンマークなど外国を巻き込み中国の国際的な立場を優位にする狙いがある。

 中国共産党は政権の正統性を「抗日戦争勝利」に求めている。2月5日には「中国人民抗日戦争勝利70周年記念」と銘打った撮影隊の“出陣式”が「南京大虐殺記念館」で行われた。

 これは政府機関の中国人民対外友好協会が主催する全国的なイベントで、全土から集められた10人以上のカメラマンが、抗日戦争に関する証言や史跡を記録し「8年の抗戦と民族の記憶」と題する写真集にまとめる。全土で巡回展示も行う。

 南京で出陣式を行ったことは、「抗日戦」の象徴的な土地として今年、南京を改めて強調する意図が感じられる。

 南京事件の犠牲者が「30万人」に上るとする説は中国の公式見解だ。

 「日本軍は野蛮にも南京に侵入し、残酷極まりない南京大虐殺事件を引き起こした。30万人の同胞が殺戮(さつりく)、無数の婦女が蹂躙(じゅうりん)殺害され、無数の子供が非業の死を遂げた。3分の1の建物が破壊され、大量の財物が略奪された」

 昨年12月13日、南京市で開かれた追悼式典。演説した国家主席、習近平は、事件の「凄惨(せいさん)さ」を繰り返し強調した。中国はこの日を「国家哀悼日」に定め、南京市などが主催してきた追悼式典を初めて国家主催とした。式典会場の「南京大虐殺記念館」の入り口には、「遭難者300000」と書かれたモニュメントが設置されている。

 中国外務省報道官、洪磊も1月15日の記者会見でこう述べた。

 「南京大虐殺は日本の軍国主義者が犯した残忍な犯罪であることに議論の余地はない。過去の侵略を覆そうとする試みは日本の国際的な信用を損なうだけだ」

 洪の発言は前日に共同通信が配信した記事に関してだった。共同の記事は、習の「30万人」発言に日本外務省が昨年12月、中国側に「適切でない」と申し入れたという内容だ。

 官房長官、菅義偉(すが・よしひで)は1月15日の記者会見で「わが国の考え方は事前に伝えるとともに、事後にもしかるべき申し入れを行っている」と、報道を事実上認めた。

 このやりとりは香港紙「文匯報」に掲載された。外交筋は、中国共産党寄りの同紙が報じたことについて、日本が事実をねじ曲げようとしていると対外的に訴えたいとの「中国政府の意図を感じる」と話す。

 中国は英字メディアでも自らの立場を積極的に宣伝している。

 9月3日に北京で習指導部発足後、初めてとなる軍事パレードを開催することについて、1月下旬に海外メディアが「対日牽制(けんせい)」「中国の軍事力を誇示」と伝えた。これに1月29日付の中国の英字日刊紙チャイナ・デーリー米国版が反応した。「勝利パレードをめぐるばかげた意見」というタイトルで掲載された同紙の論評記事だ。

 筆者のルン・ピンは「中国では8年間の抗日戦で3千万人の犠牲者が出た。6週間の南京虐殺だけでも30万人が命を落とした。抵抗を通じ中国人民は反ファシスト戦勝利に中核的な役割を演じた」と訴えた。

 中国メディアによると、習は南京事件をナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺、広島・長崎への原爆投下と並ぶ「第二次世界大戦史における3大惨事」と位置づけている。「日本軍が引き起こした大虐殺」(習)との主張を展開するうえでも「30万人」の犠牲者数は必要なのだ。  


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インドネシアの独立

日本の戦争目的は、植民地主義の打倒であった。

ソ連があった頃に、インドネシアのサンバス将軍が語った言葉である。

ソ連は無くなったが、チャイナによるチベット、ウイグルの弾圧・搾取は酷くなる一方である。

最近でも、南シナ海周辺に海軍基地を増強している。

これは東南アジア諸国への侵略である。

なぜか日本の左翼はこのことを語らない。

日頃は人権問題や防衛費には、あれこれ口を出すが、チャイナのことになると黙ってしまう二重基準で、思考停止になっているようだ。

東南アジア諸国は、第二次大戦後も植民地主義と戦ってきた。

東南アジア諸国から見れば、西洋植民地主義や共産主義と戦ってきた日本が大東亜戦争の敗戦で引き上げてしまったのである。

1602年から始まったオランダのインドネシア支配は過酷であった。

各地でコーヒーや砂糖の栽培を強制し、その収益はオランダの国家予算の三分の一を占めたと言われている。

その頃のインドネシア人の平均寿命は、一説によれば35歳だったそうだ。

オランダ支配に対して、インドネシア人は何度も独立闘争を起こした。

しかし、そのたびに制圧された。

そこに登場したのが日本軍だった。

日本軍はインドネシア人の協力で、わずか10日間でオランダ軍を追い出した。

日本の今村均大将は、独立運動の指導者スカルノに対し、将来の独立に向けた準備を支援する代わりに、戦争に協力するよう求めた。

スカルノはこの取引に応じ、日本軍に物資や労務を提供する代わりに、日本軍はインドネシア人による軍隊(PETA)の創設・訓練、官僚の育成、法制度や教育体制の整備などを進めたのであった。

日本が降伏した二日後、スカルノは初代大統領に就任して独立を宣言したのである。

しかし、オランダの副総督ファンモークは、スカルノの独立宣言を無視して、インドネシアの港町スラバヤにイギリス軍とともに、上陸した。

ファンモークは「インドネシア人は、日本軍が去ったので、我々が上陸すれば、従順になになる」と考えていた。

しかし、かつてのインドネシアではなかった。

イギリス軍は大きな犠牲を出し、1946年11月に軍隊を撤退させた。

しかし、オランダは諦めなかった。

1947年7月に戦車、飛行機、機関銃で武装した部隊約10万人を投入して、大規模な攻撃に出た。

オランダ軍は瞬く間にジャワの大部分と、スマトラ油田地帯を含む産業地帯を占領した。

オランダとの独立戦争では、日本軍人数千人が戦後も現地に残ってインドネシア軍とともに戦った。

3年半の独立戦争で、インドネシア側が払った犠牲は死者だけで80万人、負傷者は1千万人を超えた。

しかし、オランダは謝罪するどころか、損害賠償を要求した。

インドネシア政府は独立確保のために、オランダの要求をすべて呑んだ。

1963年になり、国際的に力をつけたインドネシア政府は、次のように語って日本に感謝したのである異。

我々はようやく力がついてから全世界の見ているところでオランダとの約束を全部破り捨てました。つまり植民地主義と戦うには力がなければ勝てないのです。オランダと戦う力、つまり軍事能力を戦時中、日本が与えてくれたおかげで我々は独立することができました。

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