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世捨て人の雑感

岩手県北部のことを中心に、漆芸、郷土史、書籍のことなど綴ります。

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孫基禎

某国のメディア、某国のSNSなどでは、ことあるごとに「旭日旗は東洋のハーケンクロイツで、アジア人があの旗を見ると胸が締め付けられる」などと主張している。

そして旭日旗を「戦犯旗」と呼んでいる。

戦勝国も含めて某国以外でそんな主張をする者の話を聞いたことがない。

そもそもナチスの党旗であるハーケンクロイツと軍旗である旭日旗は意味が違うのである。

某国のみ旭日旗をハーケンクロイツと同列視したがっているようだが、その某国にアドルフ・ヒトラーゆかりの月桂樹の木がある。

昭和11年のベルリン五輪、マラソン日本代表として出場した孫基禎選手が見事優勝、金メダルとともにヒトラー総統から直々に記念品として月桂樹の苗をもらっている。

その苗は現在、彼の名を冠した孫基禎体育公園で大切に育てられ、10メートルの巨木となっているそうだ。

きっと某国でこの事実を知ったなら、この記念樹を切り倒すに違いない。

孫基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日 - 2002年11月15日)は、日本統治時代の朝鮮出身の日本の男子マラソン選手です。

1936年(昭和11年)8月のベルリンオリンピックに、日本代表として出場し、当時のオリンピック記録となる2時間29分19秒2で金メダルを獲得。

現在のところ、オリンピックの男子マラソンで、世界記録保持者として出場した選手が金メダルを獲得した唯一の例だとのこと。

大会直後に朝鮮の新聞「東亜日報」に、胸の日の丸が塗りつぶされた表彰式の写真が掲載され、当時の朝鮮総督府の警務局によって同紙記者の逮捕・発刊停止処分が下されたそうです。

このため、10月になって帰国した孫には警察官が張り付き、朝鮮内で予定されていた歓迎会も大半が中止される事態になります。

この一件により、孫は陸上競技を続ける意欲を失い、翌年明治大学の予科に進むが陸上部には所属せず、その後明治大学を卒業します。

孫自身は民族意識が強く、世界最高記録樹立時の表彰式でも「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだとも伝われいます。

ベルリン滞在時には外国人へのサインに「KOREA」と記したりしていたそうです。

当時の特別高等警察によってチェックされて「特高月報」に記載されており、帰国後に「要注意人物」として監視を受けることにも繋がります。

しかし戦後に、日本の陸上関係者や戦前親しくしていた友人への手紙などには、日本語読みのローマ字署名を付けるなど、親日的な態度を取り続け、日韓友好の重要な架け橋となったそうです。

親日派名簿載せられないか心配ですね。

横浜に故・孫基禎(ソン・キジョン)先生の息子・正寅(ジョンイン)さんが暮らしているとのことです。

孫基禎にそっくりの正寅さんは、古い書類かばんに父の写真と資料を詰めて歩き、‘父の業績と生涯’について講演しているそうです。

その正寅さんが講義中に最も困るのが「金メダルはどこに保管されているのか」という質問を受けるときです。

孫基禎の金メダルは横浜の孫氏の家にもなく、韓国の孫基禎記念財団、国立博物館にもありません。

1979年から育英財団が保管していることになっています。

正寅さんは「日本としても国家初の金メダルなので所在について心配している」とし「その金メダルが長期間放置されているので、説明する方法がない」と語ったそうです。

に孫基禎が死去した後、正寅さんは育英財団側に金メダルの国家寄贈を要求してきたが、財団側の朴槿令(パク・クンリョン)元理事長は拒否したといいます。
正寅さんは「財団側は私たちが金メダルを欲しがっていると誤解しているようだ。国に寄贈してほしいと言っているのに拒否している。 3年前にメダル紛失疑惑が提起された時も、財団側は一般人に公開すると約束したが、まだ約束を守っていない」と明らかにしました。

正寅さんは金メダルを確認するため積極的に働きかける考えだそうです。

正寅さんは金メダルの歴史的価値を力説します。

「父の金メダルは韓国人と日本人だけでなく、ドイツなど世界の人々も関心を持っている。 一日も早くそのメダルが国に寄贈され、再び展示公開されなければならない」と強調しています。

特に正寅さんは「02年に父が死亡した際、月桂冠と金メダルを写真の前に置きたかったが、朴元理事長が紛失を憂慮して拒否した」とし「一体どういうことなのか尋ねざるを得なかった」と語りました。

国家の英雄も悲しんでいると思います。

https://youtu.be/wUqucBDn_FA

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テーマ:韓国について - ジャンル:政治・経済

ベトナム独立戦争

ベトナムは元々フランスの植民地でした。

植民地と聞くと聞こえはいいが、フランスを金持ちの国にして、強国にするために搾取され、言語の自由すらない奴隷、または奴隷に近い生活を余儀なくされたのです。

そのため、高齢者は今でもフランス語が話せるとか。

当時、日本は人種差別や奴隷制度に対して反対していたと言われている。

賛成していたのは白人先進国、アメリカ、イギリス、フランスなどです。

他にも反対国はあったのだが、奴隷制度撤廃は先進国にとって都合が悪いため、(資産的に国が弱体化するため)日本の主張を通さなかったのです。

そして、アメリカに目をつけられていた日本はチャイナとの戦争中。

日本に勝って欲しくないアメリカは石油の輸出を止めると言いだしました。

日本は石油の8割をアメリカに頼っていたので、これでは困るわけです。

そこで、石油を止められたら困るので、資源の豊かな東南アジア、ベトナム、サイゴンに進出したのです。

そこは、英国やフランスなどの各植民地を攻撃するのに都合のいい場所でした。

なので、アメリカはいよいよ石油の輸出を止めてしまいます。

そして、真珠湾攻撃でアメリカと日本の戦争が始まりました。

これが大東亜戦争です。

第2次世界大戦はヨーロッパだけで行われていたものだが、大東亜戦争が始まってアジアも戦場になりました。

この戦争で、日本は白人先進国を弱体化させるためか、人道的理由のためか、東南アジア各国に進出し、現地の人たちに戦い方を教え、独立へと導いたのです。

そしてベトナムに関しては、大東亜戦争後に起きたベトナム独立戦争でも、ベトナムに残った日本人の一部の人たちも共に戦ったそうです。

そして、最終的にベトナムをフランスから独立を継続させる事ができたのです。

近所のベトナム人と、この話題で盛り上がっています。

https://youtu.be/6E_zJQl8Ggw

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テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

満洲国は傀儡か

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満洲国には国税徴収法と租税犯処罰法という法律があったそうだ。

この法律は1935年(康徳2・昭和10)年の5月15日に公布された。

満洲国政府は、脱税などを犯した日本人に対して拘留することはできないと規定され、罰金を徴収することもできず、「罰金相当額を支払ってください」とお願いの通告をすること
だけが認められた。

一部では、このことは満洲国が日本の傀儡国家だったとの証拠としているようだ。

では、実情はどのようなものであったのか。

1934年末、満州を訪れたイギリス産業連盟使節団調査報告によると、満洲国住民は治安対策の向上と秩序ある政府を与えられている。

満州事変以前に、満州を牛耳っていた軍閥による略奪と摂取はなくなった。

課税制度は妥当なもので、公正に運営されている。

住民は安定通貨を持つことができた。

輸送、通信、沿岸航行、河川管理、公衆衛生、診療施設、医療訓練、そしてこれまで不足していた学校施設などの設備計画が立てられ、実施されている。

こうしたことから、満州国の工業製品市場としての規模と将来性は容易に想像することができる。

近代国家が建設されつつある。

将来に横たわる困難はあるが、これらは克服され、満洲国と他の国々の利益のために、経済繁栄が徐々に達成されるものと期待される

以上のように報告されている。

その後日本政府は、1937年には満州における日本の治外法権を撤廃し、満鉄付属地は満洲国へ返還した。
そして「満洲で営業する日本企業は、日本の法律によって設立されていても、満州の法令に基づく満州企業とみなす」「在満日本人の相続、遺言などに関する判決は満州国の裁判所に従うこと」などの法令を次々と出した。

関東州にもとから住んでいたのは満州族や漢民族(つまり中国人)だが、朝鮮や台湾、南樺太など他の植民地と違って、日本政府は彼らに日本国籍を与えなかった。

関東州はいずれ中国に返す租借地なので、彼らはチャイナ国籍のままとされた。

1925年(大正14年)版『関東庁要覧』の人口統計によれば、日本人8万8336人(うち内地人=現代でいう日本人8万7572人、朝鮮人764人)に対して、支那人(漢民族と満州族、モンゴル族)は63万7110人、他の外国人(主にロシア人)が416人だった。

1932年、清朝皇帝だった溥儀の求めにより満州国が成立する。

「満州国の独立は、日本国の傀儡国家作りではなく、民族自決の国際原則に基づいた正しい独立」を建前としたのであった。

そもそも支那と満洲は別のであるという溥儀の考えから、満洲や関東州に住む漢民族や満州族、モンゴル族は、それまでの国籍から満州国籍へ切り替えられ、中国系住民は関東州の公文書などでの呼称もそれまでの「支那人」から「満州人」になった。

同時に、関東州も支那から租借していたものが、満洲国から租借に変わった。

清朝が滅びたとき、満洲人の皇帝が満洲に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことだ。

満洲国は、わずか13年間の国だったが、世界史上でも奇跡の国だった。

建国以降、年間100万人を超える人々が移住した。

人々は支那内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのである。

移住する人々にとっては、傀儡国家であれなんであれ、安全な満洲国を選んだのである。
建国当時に約3000万人だった満洲の人口は、終戦時の1945年には4500万人以上にも増えた。

満洲が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象はみられなかったはずだ。

きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのである。

「五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」という意見もある。

しかし、これは満洲国の識字率も低く、教育も受けておらず、国家の理念すら理解しない人々が大多数だったのが理由である。
 
そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められた。

満洲国の建国によって治安が良くなり、近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放された。

貨幣の統一もわずか2年間で達成され、その広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施したのである。

もし日本が敗戦することなく、満洲国が存続していたら、満洲国は間違いなく、その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げたはずだ。

残念ながら日本の敗戦後、満洲国はチャイナの一部とされた。

満洲国の遺産は、その後のチャイナの重工業の支え、チャイナの経済的基礎となった。

大東亜戦争での日本の敗戦は、満洲の人々に幸福をもたらしたのであろうか。

https://youtu.be/4GBm9V3VOeM

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テーマ:国際政治 - ジャンル:政治・経済

過去を隠したい中国の本音

戦争で多くの日本人が祖国を守るために、戦いに挑んだのは事実です。

祖父さんの世代は、日本を守るために立ち上がった。

そんな日本を、祖父さんの世代を誇りに思います。

一番腹が立つのは、そんな祖父さんの世代を愚か者とする、戦争を知らない世代です。

祖父さんたちの世代に感謝です。

https://www.youtube.com/watch?v=rZBIG8dR8Ao



テーマ:歴史・時代小説 - ジャンル:本・雑誌

三島由紀夫

三島由紀夫、森田必勝烈士の慰霊祭間もなくです。

11月25日、あれから47年。

子供心に鮮明に残っています。

それから10年、高校生の頃には彼らの話題はタブーでした。

やっと憲法改正のムードまでこぎつけた訳です。

しかし憲法9条破壊はハードル高いでしょうね。

覚悟を決める時期ですね。

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