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Airinjuku

Author:Airinjuku
岩手の世捨て人。ある時はせんべい汁屋、ある時は漆芸職人。正体不明?でがんばってます。


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大正10年頃 二戸郡福岡町仲町界隈

長年集めてきた絵葉書。
その中に大正時代の福岡町の風景がありました。。
自動車の所有者は誰なんですかね。
フォードでしょうか。
電柱の数は今とあまり変わらない?
なんとなく見たような風景ですね。
調査を続行します。
当時の絵葉書や写真などありましたら複写させて下さい。

nakamachi11

カシオペア歴史研究所



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大日本奥州会蒲社 2

萩の小倉謙作(鯤堂)と松島剛蔵が福岡にやって来て経を講じたのが安政5年(1858)のことです。

小倉は萩の俊才で、吉田松陰や桂小五郎(木戸孝允)の親友であり、小保内定身とも知友の間柄でした。
小倉は定身の父である孫陸と計って福岡の青年士族を集めて結社をつくり、これに会輔社と命名します。
これは論語の「文ヲ以テ友ト会シ、友ヲ以テ仁ヲ輔ス」から引用したものでした。
当時の社員は14名、社長は孫陸と岩舘民弥の二人で、現存する茶室の槻蔭舎が会場でした。
小倉は異様な熱心さで経文を講じたと伝わっています。

しかし翌年10月、小倉は吉田松陰刑死の報が伝わるや、「次は余の番なり」といって、北海道に去って行方をくらまします。
まもなく帰郷した小保内定身は、彼の残した詩文を読んで感激します。
定身は時下の急務は人材の育成であると、勤王の諸士と往来しその志を深めると共に、青年の指導に専念しました。
こうしてカシオペアの地にも勤王思想の一拠点が築かれたのです。

万延元年(1860)に水戸の吉田房五郎(弗堂)が福岡にやってきます。
兵法を説き、経史を講じ、社の規則を定めて、役員を選び会輔社は名実とともに充実。
何れの士も、勤王倒幕の大義を説いて倦むことを知らなかったと伝わります。
文久2年(1862)に吉田は福岡を去ります。

小倉や吉田が去った後、小保内定身は、時代の要求する人物の養成を痛感して慶応2年(1866)に藩校を設けます。
これに対して藩主は「令斉場」と命名し、文武の道に専念したために大いに士気が上がったと伝わります。
しかし、藩内の事情により「令斉場」は慶応4年(1868)に閉校のやむなき至ったのでした。

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カシオペア歴史研究所



大日本奥州会輔社

徳川幕府の末期になると北辺事情が急を告げます。
ロシア人が開国を求めて蝦夷地にやってきたのです。
文化4年(1807)には、幕府はエゾ地を全部直割として南部津軽両藩に警備を命じます。
その後ロシア人が再び来襲して、容易ではない事態に発展しました。
幕府は秋田・庄内藩からも出兵させ、続いて仙台藩にも加勢を命じ、奥州の諸藩が出動することになって泰平二百年の夢は破られたのでした。

幕府の対応は困惑そのものでした。
切迫した外国との接触、幕府の乏しい実力を目の前に、日本人の胸に国家という意識が湧き始め、学問として研究されていた国学や皇学も、このような事態に直面して国家意識を目覚めさせる重要な要素となりました。

そんな時代背景の中で、カシオペアの大地に現れたのが下斗米将真です。
彼は、江戸に出て平山行蔵に入門。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。
平山行蔵は、江戸時代後期の幕臣で兵法家。剣術流派として講武実用流を称した。間宮林蔵、近藤重蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれる人物です。

将真は、父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設します。
同塾では武家や町人の子弟の教育にあたりました。
同年10月に同塾は近郷の金田一に移転します。
兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、演武場、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていました。
門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたそうです。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じました。

当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていましたが、
将真も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国なり。
有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたと伝えられています。
この思想は、師匠の平山行蔵の影響と考えられます。

将真が「相馬大作事件」で福岡を去った後、門弟たちで彼の精神が受け継がれます。
その中心人物が田中舘彦右衛門でした。
嘉永年間に呑香稲荷神社の小保内孫陸とはかり槻陰舎を興し、
国学を中心に華道、茶道、書道、絵画、和歌などの諸芸を教授して郷土青少年の訓育につとめたのです。

このような素地を持っていた地域に、時の社会の情勢を背景として、人を得た福岡(岩手県二戸市)に、
大日本奥州会輔社という集団が結成されたのは歴史的必然だったのです。

inarijinja

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九戸政実

今となっては昔のことである。
400年前の天正年間、関白秀吉の天下に反旗を翻す田舎武将がいた。
名前は九戸政実。
北奥随一の武将である。
事の発端は南部一族の相続問題である。
しかし、いつの間にか天下人の秀吉に対する反抗と言うことになった。

天正19年8月25日、九戸対豊臣軍による中世最後の戦が始まった。
豊臣軍は徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政など名だたる武将10万人で攻めてきた。
姉帯城、根反城の九戸側の城は奮闘むなしく落城した。

政実は浪打峠(末の松山)を固めた。
秀吉軍は北へ一歩も入ることはできない。
思いもかけなかった展開にあわてた秀吉軍の蒲生氏郷と浅野長政は、それから卑怯な戦法ばかりを使う。
まず、政実の実弟・中野修理を九戸城攻めの先頭に立たせる。

10万の大軍で5千人の九戸城を落とすのは朝飯前だったはずだ。
ところが落ちない。攻めるたびに秀吉軍の死者が出た。
「こんなちっぽけな城に手を焼くのは秀吉軍の恥だ。早く落とせ」と蒲生氏郷はあせるが落城しない。

浅野長政が「政実は長興寺の和尚・薩天を無二の親友と思っている。この和尚を使って開城させよう」と提案した。
そして、薩天を呼び出し「九戸の戦いは見事である。関白殿も感服している。城を明け渡せば知行地を与えることを約束しよう。」と言った。薩天和尚は、
浅野ほどの武将が仏門にあるものを騙すことはないと本気で考えた。
城に入って政実を説得する。
弟の実親は、「上方武士はだまし討ちが得意と聞いている。罠かもしれない」と進言する。
しかし、親友の言葉を信じて政実は開城を決意する。

やはり長政の言葉は嘘だった。
九戸方の主立った武将が長政の陣に入ると捕虜となり、秀吉軍の総大将のいる栗原郡三の迫(宮城県)まで護送された。
そこで一切の申し開きも許されずに斬首された。
開城した九戸城は、九戸方の兵士ばかりでなく女子供まで一ヶ所に集められ火が放たれた。
火炎の地獄の中で皆殺しにされた。

masazane

http://www.airinjuku.com/index.html



オトデ様

九戸地方にいると伝わるオトデ様。
その石像が某産直にあります。
触ると御利益があるそうです。
遮光式土偶を連想しますね。
アイヌ民族はフクロウを神様の使いと考えたようですね。
何らかの繋がりがあるかもしれませんね。

otode17529

カシオペア歴史研究所




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