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Airinjuku

Author:Airinjuku
岩手の世捨て人です。ある時はせんべい汁屋、ある時は漆芸職人。正体不明でがお付き合い下さい。


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漆木の発芽

数年前に古老の言い伝えを実証し、発芽させた漆の木。

雪にも負けず元気な姿です。

あと数年で漆を採取できます。

大自然を学んだ古老の教えに感謝です。

というか、浄法寺では至る所に漆木がありますが、農作業の邪魔なので伐採してしまします。

https://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet

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展示会

10年前の展示会広告が出てきました。

人的にも、肉体的にも厳しい現状ですが、楽しかったのは確かです。

なんとかもう一度挑戦したいです。

そのために、コツコツと資金と製品を作ります。

よろしければ、漆に興味を持ってください。

ぜひ、一人一椀で伝統工芸を支えてください。

http://www.airinjuku.com/

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漆掻きのむら

漆掻きの村 (平成29年12月24日)


福岡の町で金物屋をしている田中さんの先代が、越前から二十人くらいの漆掻き職人を連れてきて、漆掻きするようになったのは日露戦争の頃であった。越前から一ヶ月ぐらいかけて歩いてやって来た。当時二戸や三戸には300人ぐらいの職人がやってきたようだ。漆掻き用の道具は越前から取り寄せて使った。

 昭和10年頃になると、漆の木は著しく減少した。浄法寺や上斗米などでは植え付けて育成したが、衰退の一途だった。浄法寺には100人以上、上斗米村には50人ぐらいの職人がいた。

 藩政時代には、苗の育成から栽植、保護など山林行政のなかでも、重要な位置を占めていたことは、漆立ち奉行が置かれていたことでもわかる。

 漆の木は、業者が買い求めて掻き子の掻かせる場合と、掻き子が直接木を買い取って掻く場合がある。木の値段は「四十匁たれ」というのが標準になる。四十匁というのは、だいたい二十年の木から採取できる量である。

 漆掻きには、時期と方法によって区別があった。掻き取った漆は、たいていは大阪方面に売り捌いていたことが古い記録に残っている。

(参考文献 高橋九一 むらの生活史)

http://www.airinjuku.com/index.html

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藤井漆工芸 金継ぎ「美」セット

少し前の風景

40年以上にわたり浄法寺を見下ろした建物。

取り壊されて数年経ちました。。

たしかに現在の基準では強度が足りないんでしょうが、何となくもったいないです。

十勝沖地震、東日本大震災も耐えたんですよね。

しばらく帰省していない方は、新鮮な風景かもしれませんね。

https://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet

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無添加 昭和の塩辛 3本セット【送料込】(いか塩辛 青森)

大日本奥州会輔社について 2

大日本奥州会輔社について 2

萩の小倉謙作(鯤堂)と松島剛蔵が福岡にやって来て経を講じたのが安政5年(1858)のことです。

小倉は萩の俊才で、吉田松陰や桂小五郎(木戸孝允)の親友であり、小保内定身とも知友の間柄でした。

小倉は定身の父である孫陸と計って福岡の青年士族を集めて結社をつくり、これに会輔社と命名します。

これは論語の「文ヲ以テ友ト会シ、友ヲ以テ仁ヲ輔ス」から引用したものでした。

当時の社員は14名、社長は孫陸と岩舘民弥の二人で、現存する茶室の槻蔭舎が会場でした。

小倉は異様な熱心さで経文を講じたと伝わっています。

しかし翌年10月、小倉は吉田松陰刑死の報が伝わるや、「次は余の番なり」といって、北海道に去って行方をくらまします。

まもなく帰郷した小保内定身は、彼の残した詩文を読んで感激します。

定身は時下の急務は人材の育成であると、勤王の諸士と往来しその志を深めると共に、青年の指導に専念しました。

こうしてカシオペアの地にも勤王思想の一拠点が築かれたのです。

万延元年(1860)に水戸の吉田房五郎(弗堂)が福岡にやってきます。

兵法を説き、経史を講じ、社の規則を定めて、役員を選び会輔社は名実とともに充実。

何れの士も、勤王倒幕の大義を説いて倦むことを知らなかったと伝わります。

文久2年(1862)に吉田は福岡を去ります。

小倉や吉田が去った後、小保内定身は、時代の要求する人物の養成を痛感して慶応2年(1866)に藩校を設けます。

これに対して藩主は「令斉場」と命名し、文武の道に専念したために大いに士気が上がったと伝わります。

しかし、藩内の事情により「令斉場」は慶応4年(1868)に閉校のやむなき至ったのでした。

http://www.airinjuku.com/index.html

saigou oooo




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