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Airinjuku

Author:Airinjuku
岩手の世捨て人です。ある時はせんべい汁屋、ある時は漆芸職人。正体不明でがお付き合い下さい。


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中村誠さんを偲んで

郷土のいろんなことを調べていて、心から頼っていた方が亡くなりました。
享年65才です。
ちょうど10才ほど年上でした。

最初に会ったのは20年ぐらい前だったと思います。
当時、珍しかったインターネットのアクセスポイントが中村さんが経営する会社でした。
中村さんからホームページの作成方法を指導していただきました。

ある時、中村さん「相原三郎」という名前を口にしました。
実は、その相原三郎は私が手がかりを探していた人物でもありました。
私は、国産ガソリンエンジンの先覚者である島津楢蔵から田中舘愛橘にたどり着きました。
何を隠そう、中村誠さんは田中舘愛橘研究の第一人者だったのです。

それ以来、田中舘愛橘はもちろん、二戸の郷土史を一緒に調べてくれました。
「調べたことは、どんな形でも後世に残しましょう」と言ってくれたのです。
書いて残したいことはたくさんあります。
ぜひ一緒に調べて書き残したかったです。

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立川で出会った朽木盆

20年ぐらい前に、何気なく立ち寄った立川の蕎麦店。
冷酒を蕎麦でいただいたときに、朽木盆で冷酒を運んで来てくれました。
その紋様が、何となく神々しいと感じたのを覚えてます。
店主の出身地はどこだったんでしょうか。
聞かなかったことを後悔しています。

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大正5年頃の田中舘愛橘

5年ぐらい前にフランスから1枚の写真が送られて来ました。
以前からオートバイのカタログを交換しているマニアからです。
彼のマニアの友人宅で保管されていたものです。(所有者を仮にAさんとします)
Aさんのお祖父さんか曾祖父さんが1920年頃まで数年間日本に滞在したことがあるようです。
フランスの軍人に同行した技術者らしいとのこと。

何よりもびっくりしたのは「田中舘愛橘」が写っていることでした。
仮に1920年(大正9年)の写真だとすると、愛橘博士が64歳の写真ということになります。

続く

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昭和新山

北海道の観光地として知られる「昭和新山」は、昭和18年暮れにその活動が活発化して誕生しました。
その完成は、昭和20年9月です。
その形成の過程は、アマチュア火山学者・三松正夫の詳細な観察により世に知られることになりました。

明治43年、有珠郡壮瞥村の郵便局長代理として勤務していた三松正夫は、明治新山(四十三山)の形成過程を目にします。
地震の連続、人々の目にはわからないうちに進行する大地の隆起、各火口から噴き出る白煙や黒煙、四方に降る火山灰や泥流の溢出。
その活動は、のどかな生活を一変させる大事件で、三松にとって火山に対する認識と興味、そして不安を感じさせるものでした。

明治新山の形成から程なくして、有珠郡洞爺村に一人の火山学者が現地調査に訪れます。
火山研究の第一人者で北海道大学助教授の田中舘秀三博士でした。
地元では、これを機会に火山に関するお話を伺いたいと願い出たところ、博士は快く引き受けたのでした。
博士が滞在していた三樹亭三橋旅館の広間は、臨時の講演会場に早変わり。
この講演会に三松が参加したことにより、二人の交流が始まります。

三松の回想によると、その噛んで含めるような解りやすい話しぶり、有珠山に関する学問的な説明に深い感銘を受けたととあります。
博士から、「この次に来る時には、参考書を届けてあげるよ。」という思いがけない言葉をかけていただき、その場で、自分勝手に師弟の契りを結んだのでした。
二人の交流は、博士が亡くなる昭和26年まで続きます。

田中舘秀三博士は、明治17年(1884)6月11日に、岩手県二戸郡福岡村(現二戸市)に生まれました。
本名は下斗米秀二郎です。
田中舘愛橘博士の一人娘・美稲と結婚し田中舘姓を名乗るようになります。
地元の福岡小学校卒業後に、旧制盛岡中学に進学。同級に、野村胡堂、山辺英太郎などが居ります。
盛岡中学から第三高等学校、東京帝国大学へと進み、地質学研究の第一人者に。


hidezo

続き



天台寺の謎

二戸市浄法寺町の天台寺は、カシオペア地域内では九戸城と並ぶ歴史的な遺産である。
今東光氏や瀬戸内寂聴尼に縁のお寺として脚光を浴びているが、実は歴史的謎の多い寺でもある。

・宗派をそのものを名乗る国内唯一の寺院である
・寺なのに柏手を打って礼拝する
・かつては岩木山を支配していた
・宮内庁が管轄している土地がある
・長慶天皇に関する伝説がある

これだけでも歴史的ロマンをかきたてるが、さらにもう一つ歴史的なものが残っている。
祭礼の時に使われる太鼓である。

平成2年の暮れに、この太鼓の鳴りが悪いということで修理に出すことになった。
この太鼓の修理を請け負った業者は、太鼓の皮をはがした瞬間思わず息を呑んだ。
胴の内部に修理歴が墨書でびっしり書かれていたからである。

墨書1
 吊り金具の両脇に「天台寺太鼓事奉造立意趣者」と書かれていた。
 そして残念なことにそれに続く文字が、後述する墨書6のために削り取られ内容が不明になってしまった。

墨書2
 元中9年(1392年)の修理の際に書かれたもの

墨書3
 文安5年(1448年)の修理の際に書かれたもの

墨書4
 永禄2年(1559年)の修理の際に書かれたもの

墨書5
 元禄15年(1702年)の修理の際に書かれたもの

墨書6
 宝暦5年(1755年)の修理の際に書かれたもので、墨書1の文字を削って書かれている。

以上のことから確実のわかることは、この太鼓が作られたのが墨書2の元中9年よりも間違いなく古いと言うことだ。
元中9年という年号でさえ、岩手県内では最古の太鼓といえる。

国内に残る太鼓で最も古いものは、兵庫県朝光寺の永仁6年(1298年)のものである。
天台寺の太鼓が初めて改修された元中9年(1392年)より96年ほど古いことになる。
この最初の改修が行われた元中9年(1392年)でさえ、実は国内でベスト10に入る古さである。 墨書からわかることは、改修までの長い期間は約110年、短い期間は約50年である。

ところで元中9年というのは、実は南朝の年号なのである。北朝では至徳9年である。
更にこの元中9年より60年ほど前の正平18年の鰐口も残っている。
長慶天皇伝説など、こちらも歴史的ロマンを感じさせてくれる。

管理人は、天台寺の太鼓は源存じている中で日本一古い太鼓だと信じて疑わない。
いつ作られたのかと言えば、藤原秀衡没後100年で、金色堂の修理が行われた時期と予想している。
正応元年(1288年)にこの地方に影響のあった南部氏、もしくは浄法寺氏(畠山重忠の子孫)が寄進したものであろう。
南部氏も浄法寺畠山氏も、当時鎌倉からこの地を与えられた北条氏の被官(代理人)である。

tenndaiji

カシオペア歴史研究所



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