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Airinjuku

Author:Airinjuku
岩手の世捨て人です。ある時はせんべい汁屋、ある時は漆芸職人。正体不明でがお付き合い下さい。


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スハルト大統領

インドネシアの第2代大統領(1921~2008 )
中部ジャワの出身。
第二次大戦では宗主国オランダの兵士として戦うが、日本に敗れると日本が組織した軍に入隊。
戦後は独立戦争で活躍。
1965年、軍部左派将校らによる九・三〇事件を鎮圧し、スカルノに代わって全権を掌握。
1968年大統領に就任して、反共・民族主義政策を推進。
開発独裁政権として工業化・経済成長を達成したが、親族らへの利益供与・不正蓄財への不満から、1998年に辞任に追い込まれた。
日本では独裁者のイメージがあるが、共産主義革命寸前のインドネシアの共産化を防いだ功績は、日本人として評価すべきである。

Soeharto.jpg

http://www.geocities.jp/michinokumeet/



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決勝戦で惜敗

 大正13年(1924)夏、小向八郎は仙台高工野球部の夏期合宿を兼ねて来福した。合宿場所は、裁判所通りの沢藤倉治宅の新築したばかりの家を借用した。この合宿は福中野球部の指導も兼ね、午前、午後と猛練習を実行した。その指導は非常に効果的だった。野球知識の必要性を説き、「野球セオリー」をミーティングのたびに講義し、福中野球部員も筆記し勉強に励んだ。こうして野球知識も広がり技術も向上し、いよいよ7月31日から行われる東北大会に挑んだ。大会は仙台市の東北体育球場で、東京朝日新聞社の主催・第二高等学校の後援で行われた。参加24校で決勝戦は秋田中学が米沢中学を18-6で破って優勝し全国大会に駒を進めた。福中は1回戦不戦勝の後、8月3日に一関中学と対戦し3-9で敗れた。

 大正14年(1925)の第11回大会では、参加校の激増と地理的な関係上東北大会から青森、秋田、山形を分離し奥羽大会を新設した。東北大会は岩手、宮城、福島で争われ、東京朝日新聞の主催、二高後援で8月3日から9日まで仙台市の東北体協球場で行われた。東北大会参加校は19校で、福中野球部は東北大会ベスト4に進出し「福中強し」との声を聞くようなった。ベスト4進出の立役者、中津川昇二と小坂国夫のバッテリーは、関東以北最大のバッテリーと噂され一躍優勝候補と目されたが、経験の差とでもいうべきか準決勝で盛岡中学に2-5で敗れた。前年秋に行われた盛岡中学との練習試合に開校以来初めて勝利し、今度こそは勝てるという思いで盛岡中学に挑んだが跳ね返された。しかし将来に希望を抱くベスト4進出であった。

続 く 

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http://www.airinjuku.com/jinbadai/jinbadai015.html




朽木盆

浄法寺地方の旧家から、不思議な紋様の丸盆が出てきます。
一般的には、朽木盆と呼ばれるモノです。
なぜか、同じようなモノが滋賀県に残っているようですね。
体系的に調べた資料があれば読んでみたいです。

490.jpg

http://www.airinjuku.com/index.html



ダライ・ラマ制裁に苦しむ、モンゴルが切るインドカード

2017年1月14日(土)11時00分に書かれたコラム。
執筆者は楊海英氏。

モンゴル駐インド大使が最近、インド外務省に書簡を送ったという。
中国の習近平(シー・チンピン)政権によるモンゴルへの制裁を解除するよう、モディ首相から働き掛けてほしいとの内容らしい。

事の発端は16年11月末に実現したチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(81)のモンゴル訪問。
5年ぶり、9度目の訪問だった。
中国外務省の報道官は「ダライ・ラマは法衣をまとったオオカミで分離独立分子」と口汚く批判。
さらにモンゴルから輸入する鉱物に高関税を課し、決まっていた元借款を凍結するなど厳しい制裁を発動した。

困ったモンゴルがインドに助けを求めたのには訳がある。
仏教に代表されるチベット文明はインドにルーツがあり、モンゴルはチベット仏教の強い影響下にある。
モンゴル、チベット、インドを結ぶ絆はダライ・ラマ亡命で強まっている。今回、中国から圧力を受けたモンゴルが中国と地政学的に対峙するインドに頼るのは自然だ。

「世界の屋根」チベットを自国の「古くからの領土にして核心的利益」と位置付ける中国は1950年に人民解放軍をチベットの首都ラサに進駐させた。

54年、19歳の少年が北京に到着して、61歳の毛沢東とチベットの政治的地位を協議。
百戦錬磨の毛に呼ばれた青年ダライ・ラマは「宗教は麻薬だ」と脅され、宗教改革を強制された。
その後、中国はチベットの仏教寺院を破壊し、僧侶を還俗させる過激な政策を実施。
ラサに軍事的な圧力をかけると、ダライ・ラマは59年に亡命した。

以来、中国は「ヨーロッパの中世よりも暗黒な、政教一致の封建制から解放したチベットを、一気に共産主義に迎え入れた」と宣言し、過酷な統治を続けてきた。

当初は独立を唱えたダライ・ラマも近年では自らの存命中にチベット問題を解決しようと、中国への要求を「高度の自治の実施」に引き下げた。

しかし、北京は対話のドアを閉ざしたままだ。高齢のダライ・ラマの「成仏」を待っているからだ。

ダライ・ラマは習国家主席の父、習仲勲(シー・チョンシュン)と交流があり、以前は現体制に期待を寄せていた。
しかし、毛沢東時代に復古しつつあると判断してからは、両者の対話も途絶えてしまった。

中国が恐れているのは、ダライ・ラマが「チベット仏教文化圏」全体に持つ権威だ。
チベット自治区そのものだけでなく、その東の四川省西部と青海省、それにモンゴリア(モンゴル国と中国内モンゴル自治区)と旧満州、シベリア南部の住民はほとんどがチベット仏教の信者だ。

16年のモンゴル訪問中も、ロシア連邦のトゥワ、ブリャート各共和国から信者が現地に集結。
ブリャートでは近年、ロシア正教から改宗するロシア人も出現。
チベット仏教徒は数こそ3000万人前後だが地域的な広がりが大きく、民族問題が先鋭化している点も重なる。だから、北京は神経をとがらせているのだ。

ノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマは哲学思想をユーモラスに分かりやすく語るので、実は漢民族にも人気が高い。
従来は在外の漢民族や香港、台湾にファンが多かったが、近年では中国国内でもその説教に耳を傾ける人たちが増えてきた。

急速な経済成長で精神的な世界を失い、実質的に国家資本主義制度の搾取にあえいでいる漢民族の貧困層まで、チベット仏教に救済を求めている。こうした国内外のブームは共産党の一党独裁を根幹から揺るがしかねないため、中国はダライ・ラマの外国訪問を糾弾してきた。

ダライ・ラマがモンゴルを最初に訪問したのは79年。
既に社会主義制度は疲弊していた。
それでも90年の社会主義体制崩壊はダライ・ラマ訪問と無縁ではない、と中国は理解している。

資源価格暴落による未曽有の経済的困窮に陥ったこの時期の中国の制裁は、モンゴルに衝撃を与えている。
「竜」と相性が合わないまま、ついに「ゾウ」の出番を待つ時となったようだ。

果たしてモディはどのように登場するのだろうか。

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カシオペア歴史研究所




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