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Airinjuku

Author:Airinjuku
岩手の世捨て人です。ある時はせんべい汁屋、ある時は漆芸職人。正体不明でがお付き合い下さい。


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最後の帝国軍人

日本が台湾を統治していた時代に、彼は志願兵として日本の軍人になった。
そのとき名前は「中村輝男夫」である。

台湾アミ族出身で、本名をスニヨンと言った。
生まれたのは大正8年(1919)である。
中村輝男は日本陸軍の南方作戦で高砂義勇隊一等兵としてモロタイ島で戦った。
日本の敗戦後、台湾にやってきた国民党政府は戸籍整理を行い、本人が知らないまま「李光輝」と名付けられた。

彼は敗戦を知らずに戦い続けた。
タイ島の密林の奥で逃亡生活を送り、ついに発見された時は57歳になっていた。発見されたときに最初に発した言葉が、「ニッポンテイコクリクグンウットウヘイナカムラテルオ」だった。

故郷の台湾に戻った時、妻・李蘭英(日本名・中村正子)は生活のために51歳の農夫と再婚していた。
三角婚姻である。その第二夫(黄金木)、そして子供たちとの葛藤の後に、彼は妻と子供たちと一緒に暮らすことになった。

日本国民として天皇陛下に拝謁して故郷に凱旋したいという思いが、中村輝男にはあったのだろうが、日華平和条約で台湾出身者は日本国籍を自動的に離脱した格好になっていた。

更に帰国した昭和49年(1974)12月は日華団交後であり、台湾との国交は閉ざされていた。そして台湾では戒厳令の真っ只中であり、日本政府は「筋を通すこと」よりも「波風を立てないこと」を選択した。

日本政府は、中村輝男に対しては概して冷たい事務的な態度で臨んだと言う。
グアム島から帰った横井軍曹は政府と民間から2400万円、ルバング島から帰った小野田少尉は手記その他で3500万円ほどを手にしたことと比べると、本当に申し訳ない気持ちである。

日本政府は、出征後32年分の恩給を支給し、過去に遡及して一等兵から兵長に二階級特進をさせたのはせめてもの罪滅ぼしのつもりであろうか。

故郷では、古い友だちや訪問客の相手をして酒を飲み、タバコを吸って豊かだが満たされない日々をおくった。蒋経国の総統就任式にアミ族の祝賀隊の先頭にもたった。

昭和54年(1979)に61歳で、スニヨン、中村輝夫、李光輝という3つの名前を余儀なくされた彼は肺がんでなくなった。

「日本は負けてはおりません。自分は日本に帰りたい」と彼は最後まで思っていたのかもしれない。

teruonakamura

カシオペア歴史研究所

スニヨンの一生 (1984年)

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