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Airinjuku

Author:Airinjuku
岩手の世捨て人です。ある時はせんべい汁屋、ある時は漆芸職人。正体不明でがお付き合い下さい。


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天台寺の謎

二戸市浄法寺町の天台寺は、カシオペア地域内では九戸城と並ぶ歴史的な遺産である。
今東光氏や瀬戸内寂聴尼に縁のお寺として脚光を浴びているが、実は歴史的謎の多い寺でもある。

・宗派をそのものを名乗る国内唯一の寺院である
・寺なのに柏手を打って礼拝する
・かつては岩木山を支配していた
・宮内庁が管轄している土地がある
・長慶天皇に関する伝説がある

これだけでも歴史的ロマンをかきたてるが、さらにもう一つ歴史的なものが残っている。
祭礼の時に使われる太鼓である。

平成2年の暮れに、この太鼓の鳴りが悪いということで修理に出すことになった。
この太鼓の修理を請け負った業者は、太鼓の皮をはがした瞬間思わず息を呑んだ。
胴の内部に修理歴が墨書でびっしり書かれていたからである。

墨書1
 吊り金具の両脇に「天台寺太鼓事奉造立意趣者」と書かれていた。
 そして残念なことにそれに続く文字が、後述する墨書6のために削り取られ内容が不明になってしまった。

墨書2
 元中9年(1392年)の修理の際に書かれたもの

墨書3
 文安5年(1448年)の修理の際に書かれたもの

墨書4
 永禄2年(1559年)の修理の際に書かれたもの

墨書5
 元禄15年(1702年)の修理の際に書かれたもの

墨書6
 宝暦5年(1755年)の修理の際に書かれたもので、墨書1の文字を削って書かれている。

以上のことから確実のわかることは、この太鼓が作られたのが墨書2の元中9年よりも間違いなく古いと言うことだ。
元中9年という年号でさえ、岩手県内では最古の太鼓といえる。

国内に残る太鼓で最も古いものは、兵庫県朝光寺の永仁6年(1298年)のものである。
天台寺の太鼓が初めて改修された元中9年(1392年)より96年ほど古いことになる。
この最初の改修が行われた元中9年(1392年)でさえ、実は国内でベスト10に入る古さである。 墨書からわかることは、改修までの長い期間は約110年、短い期間は約50年である。

ところで元中9年というのは、実は南朝の年号なのである。北朝では至徳9年である。
更にこの元中9年より60年ほど前の正平18年の鰐口も残っている。
長慶天皇伝説など、こちらも歴史的ロマンを感じさせてくれる。

管理人は、天台寺の太鼓は源存じている中で日本一古い太鼓だと信じて疑わない。
いつ作られたのかと言えば、藤原秀衡没後100年で、金色堂の修理が行われた時期と予想している。
正応元年(1288年)にこの地方に影響のあった南部氏、もしくは浄法寺氏(畠山重忠の子孫)が寄進したものであろう。
南部氏も浄法寺畠山氏も、当時鎌倉からこの地を与えられた北条氏の被官(代理人)である。

tenndaiji

カシオペア歴史研究所


大正年間の浄法寺駐在所

大正年間の浄法寺駐在所。
ハイカラな服装です。
同じような風景が、今でも残っていますよ。

177701

カシオペア歴史研究所



岩谷橋

大正10年ごろの岩谷橋付近です。
道幅が狭い他は、現代の雰囲気を残していますね。
この近辺に、コーヒーを売っているお店があったようです。
喫茶店なのか、コーヒー豆を売っていたのか興味あるところです。

iwayabashi

カシオペア歴史研究所



大正10年頃 二戸郡福岡町仲町界隈

長年集めてきた絵葉書。
その中に大正時代の福岡町の風景がありました。。
自動車の所有者は誰なんですかね。
フォードでしょうか。
電柱の数は今とあまり変わらない?
なんとなく見たような風景ですね。
調査を続行します。
当時の絵葉書や写真などありましたら複写させて下さい。

nakamachi11

カシオペア歴史研究所



大日本奥州会蒲社 2

萩の小倉謙作(鯤堂)と松島剛蔵が福岡にやって来て経を講じたのが安政5年(1858)のことです。

小倉は萩の俊才で、吉田松陰や桂小五郎(木戸孝允)の親友であり、小保内定身とも知友の間柄でした。
小倉は定身の父である孫陸と計って福岡の青年士族を集めて結社をつくり、これに会輔社と命名します。
これは論語の「文ヲ以テ友ト会シ、友ヲ以テ仁ヲ輔ス」から引用したものでした。
当時の社員は14名、社長は孫陸と岩舘民弥の二人で、現存する茶室の槻蔭舎が会場でした。
小倉は異様な熱心さで経文を講じたと伝わっています。

しかし翌年10月、小倉は吉田松陰刑死の報が伝わるや、「次は余の番なり」といって、北海道に去って行方をくらまします。
まもなく帰郷した小保内定身は、彼の残した詩文を読んで感激します。
定身は時下の急務は人材の育成であると、勤王の諸士と往来しその志を深めると共に、青年の指導に専念しました。
こうしてカシオペアの地にも勤王思想の一拠点が築かれたのです。

万延元年(1860)に水戸の吉田房五郎(弗堂)が福岡にやってきます。
兵法を説き、経史を講じ、社の規則を定めて、役員を選び会輔社は名実とともに充実。
何れの士も、勤王倒幕の大義を説いて倦むことを知らなかったと伝わります。
文久2年(1862)に吉田は福岡を去ります。

小倉や吉田が去った後、小保内定身は、時代の要求する人物の養成を痛感して慶応2年(1866)に藩校を設けます。
これに対して藩主は「令斉場」と命名し、文武の道に専念したために大いに士気が上がったと伝わります。
しかし、藩内の事情により「令斉場」は慶応4年(1868)に閉校のやむなき至ったのでした。

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