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Airinjuku

Author:Airinjuku
岩手の世捨て人です。ある時はせんべい汁屋、ある時は漆芸職人。正体不明でがお付き合い下さい。


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大日本奥州会輔社

大日本奥州会輔社が結成されるまで

徳川幕府の末期になると北辺事情が急を告げます。
ロシア人が開国を求めて蝦夷地にやってきたのです。
文化4年(1807)には、幕府はエゾ地を全部直割として南部津軽両藩に警備を命じます。

その後ロシア人が再び来襲して、容易ではない事態に発展しました。
幕府は秋田・庄内藩からも出兵させ、続いて仙台藩にも加勢を命じ、奥州の諸藩が出動することになって泰平二百年の夢は破られたのでした。

幕府の対応は困惑そのものでした。
切迫した外国との接触、幕府の乏しい実力を目の前に、日本人の胸に国家という意識が湧き始め、学問として研究されていた国学や皇学も、このような事態に直面して国家意識を目覚めさせる重要な要素となりました。

そんな時代背景の中で、カシオペアの大地に現れたのが下斗米将真です。
彼は、江戸に出て平山行蔵に入門。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。
平山行蔵は、江戸時代後期の幕臣で兵法家。剣術流派として講武実用流を称した。間宮林蔵、近藤重蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれる人物です。

将真は、父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設します。
同塾では武家や町人の子弟の教育にあたりました。
同年10月に同塾は近郷の金田一に移転します。

兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、演武場、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていました。
門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたそうです。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じました。

当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていましたが、
将真も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたと伝えられています。この思想は、師匠の平山行蔵の影響と考えられます。

将真が「相馬大作事件」で福岡を去った後、門弟たちで彼の精神が受け継がれます。その中心人物が田中舘彦右衛門でした。
嘉永年間に呑香稲荷神社の小保内孫陸とはかり槻陰舎を興し、
国学を中心に華道、茶道、書道、絵画、和歌などの諸芸を教授して郷土青少年の訓育につとめたのです。

このような素地を持っていた地域に、時の社会の情勢を背景として、人を得た福岡(岩手県二戸市)に、
大日本奥州会輔社という集団が結成されたのは歴史的必然だったのです。

http://www.airinjuku.com/index.html

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創立80年記事

創立80周年を伝える新聞記事を見つけました。

卒業した次の年でした。

間違いなく「会輔社」を引き継いだ校風として紹介されています。

現在は生徒にどのように教えてるんでしょうか?

会輔社があったから県内3校目の中学校として誕生したのは紛れもない事実です。

https://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet

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漆掻き技法

一般的に「南部椀」と言われるものです。

盛岡藩では浄法寺椀とも言っていました。

藩外では南部椀の呼称だったと思われます。

この椀は二戸地方の旧家(南部藩士)で使われていたものです。

塗りは浄法寺、絵付けなどは盛岡だと記録されていますが、詳細は堂なんでしょうか。

程度も良い状態で残されている一品です。

現在の秀衡塗は、この南部椀の系譜との記述もあります。

古い会津椀、大内椀も南部椀から派生したようです。

http://airinjuku.cocolog-nifty.com/blog/

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弥生蕎麦椀 溜内朱 ISS115


エドワード・モース博士

大森貝塚を見つけたエドワード・モース博士。

二戸を旅しています。

その途中で漆蝋の製造現場をスケッチしています。

ところで、貝塚は少し前までは残飯の捨て場所考えられていました。

ですが、現在では斎場として使われた場合もあると考えられているようです。

40年前は、縄文文化は遅れた文化で弥生文化に劣っていると教えられました。

現在では、縄文文化は世界5大文明に匹敵するという説もあります。

ワクワクしますね。

カシオペア歴史研究所

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明治から昭和中期の市日風景

(参考文献 高橋九一 むらの生活史)


 時々沿岸からやってくる行商人だけでは、とき日常生活には事欠く。やっぱり地元の商店に依存しなければならない。明治の末ごろ、現在の三万都市福岡は7000戸足らずの田舎町で明治の初めには、数軒の店があるにすぎなかった。
 アメリカの動物学者で日本研究家のモースの箸「日本その日その日」という旅行記の中にこの福岡について次のような記述がある。

 「福岡という村は広い主要街道の中央に小さな庭園がいくつも並び、そして町が清掃してあってきわめて美しかったことを覚えている。この地方の人々は目が淡褐色で南方の人々よりもいい顔をしている。」

 この町に寛文九年の市日の事を書いた文書がある。市に出た物というのは、塩とか粟、葉たばこ、稗、そば、大麦、大豆など、近在の農家からの食糧が主であったが、凶作の年は市日が立たないことが多かった。

 安政四年、御返地村の肝煎りの覚え書きによると、いろんな買い物をしている。例えば、たばこ20縄、ニシン一丸、糀四升、干し鰯、焼き麩、にんじん、百合、砂糖、塩引、笠、雪合羽、手拭い、たこ帽子、木綿布、浅黄、夜着、鍬二丁、草刈鎌、包丁一丁、茶碗十二、針六十本、富山薬などとなっている。これは肝煎りだからこその買い物で、とても一般百姓が日常でこういう買い物をしたわけではない。

 福岡の松盛という市掛け商人の市掛帳に記されている商品を見ると、膳椀、三重、四重、杯、ひしゃげ、箸などの塗り物が主で、北上山地を越えた村の市日には馬で運んだらしく、熊蔵という者に度々駄賃を支払っていることが書いてある。

 周辺の農家では、」町から物を求めることよりも、大事なことは、稗とか大豆とか蕎麦を売って現金収入を得ることであった。明治の頃には、町には米穀商というものは無かった。近在の百姓が稗を売るために、町に一定の宿を決めて売る方法をとった。これを市子宿といった。

 明治二十四年に東北本線が開通すると、他所の市掛商人が入り込むようになった。昭和の初め頃になると、商品の種類もしだいに増え、にんじん、ゴボウ、大根、甘藍、なす、胡瓜、南瓜なども露天に並ぶようになった。この地域の農家の栽培技術が進歩した証拠である。

カシオペア歴史紀行

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