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2024-03-02

鳥居

子供の頃に天台寺に向かう途中に大きな鳥居があったと思いました。

記憶違いかと思って当時の写真を探していたんですが、浄法寺町史に掲載されていました。

何度も読んだはずなんですが、見落としていました。

復活したい遺産です。紀元2600年を記念して作られたと聴いたことがあります。

次回の天台寺保存会の総会で提案したいと思います。

https://www.facebook.com/groups/877929095611624

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2024-03-01

昭和55年夏の北福岡駅プラットホーム

たかが45年前ですが、遠い過去のことになってしまいました。

9回目の甲子園に向かって出発する野球部を見送るために集まった人々です。

北福岡駅でも粋な計らいで入場料を取らなかったらしいです。

当時は駅が始まって以来の人出ともいわれました。

令和6年の夏、ぜひ再現してほしいと願っています。

https://www.facebook.com/groups/877929095611624

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2024-03-01

3月のレコード交換会

前回は中止となったレコード交換会。

3月23日~24日で考えています。

場所は「二戸市浄法寺町下前田15-3」で予定。

近くなったら詳細をご案内します。

出店料などはありません。

不要なレコードやCDなどありましたら持ち寄って楽しみましょう。

https://www.facebook.com/groups/943289662382884

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2024-02-29

助成金いただきました

昨年秋に開催した愛輪塾ラリー。

そのイベントの助成金をいただきました。

今年の企画のための資材などを購入しています。

今年も何かをやります。

お付き合いください。

そして二戸市および近隣の観光に寄与できればと考えています。

二戸地域にはその潜在能力があると思っています。

https://www.facebook.com/groups/964943243637994

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2024-02-29

天台寺保存会に小田島行伸氏が就任

清川明彬氏の逝去に伴い新会長に小田島行伸氏が就任しました。

地域の財産である天台寺の発展のために、今後の活躍を期待します。

西暦の2028年は天台寺1300年祭です。

1978年の1250年祭を知っている者としては、ぜひ成功させて欲しいと思っています。



https://www.facebook.com/groups/877929095611624/?multi_permalinks=25000168996294297¬if_id=1709077226608812¬if_t=feedback_reaction_generic&ref=notif
2024-02-28

陸奥の名族浄法寺氏は天台寺に関連した一族?

中世糠部のうち安比川流域に勢力のあった浄法寺氏は、個人的には天台寺に関連した一族と個人的に考えています。

浄法寺氏は、桓武平氏秩父権守重綱から出た畠山氏の分流と通説では伝わっています。

秩父重能は畠山庄司になり、畠山に移り住み畠山氏を称しました。

重能の子が畠山重忠で、源頼朝の信頼が厚く、鎌倉武士の典型と仰がれました。

北条時政の娘を娶り、頼朝とは相兄弟の仲でした。

元久二年(1205)、重忠の嫡子六郎重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅と争って時政に殺害され、重忠は武蔵二股川で幕府軍と戦って討ち死しました。

これは時政が画策していた朝雅将軍擁立計画を打倒するために、北条義時がたてた策に畠山氏が利用された結果とされています。

この時、武蔵国慈院二十九世別であった三男の畠山小次郎重慶は、陸奥浄法寺に逃れ、還俗して重慶と名乗り浄法寺氏の祖になったと伝わります。

戦国期の居城である陸奥浄法寺城は、東西約400メートル、南北700メートルの広大なもので、当時の北奥では三戸・九戸・八戸と並ぶ南部勢力の有力者でした。

南部氏からも客将として扱われ、特別な地位であったようです。

城は大身者であったことをうかがわせる規模です。

特に糠部から鹿角に通じる要衝を押さえていたことから「鹿角の大将」とよばれることもありました。

慶長年間(1600~)の和賀兵乱の際、南部利直は一時休戦にして、和賀に浄法寺重好を置き三戸に帰りました。

重好はひそかに浄法寺に帰って戦陣の規律を破ったため、慶長八年(1603)知行家禄屋敷を没収されました。

その身は蟄居となり、分流松岡家に預けられ浄法寺氏は断絶したと伝わります。

https://www.facebook.com/groups/877929095611624


2024-02-28

スコット・ハミルトン

一枚のレコードが欲しいために30枚をまとめ買いしてしまいました。

ですが、他のレコードもなかなか良いのが混じっていました。

レコード整理すると言いながら、増えているとの指摘は事実です。

ダブったものはヤフオク出品。

一部はレコード交換会で出品します。

さて、スコット・ハミルトンは高校時代に出会いました。

当時はサックス界の新人として脚光を浴びていたような気がします。

アルバムに参加しているミュージシャンも素晴らしいメンバーです。

レコード倶楽部でのJJナイトでは、堪能して欲しいといますいます。

遊びに来てください。

https://www.facebook.com/groups/943289662382884

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2024-02-27

天台寺保存会の臨時総会

本日は天台寺保存会の臨時総会でした。

議題は前会長の清川明彬氏の急逝に伴う新会長選出でした。

新会長は後で紹介しますが、新会長選出先だって清川氏に感謝状が贈られました。

会員一同で天台寺振興に決意を新たにしました。

https://www.facebook.com/hiroyuki.kobune

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2024-02-27

糠部郡の分割について

南部信直が豊臣秀吉から安堵された南部内七郡は、糠部、鹿角、岩手、志和、稗貫、閉伊、和賀の各郡です。

この時期以前の文書には、後に糠部郡から分かれる二戸、三戸、九戸、北郡は、たとえば「糠部郡の内三戸」というように郡名の後に地名が書かれています。

それでは、二戸郡などはどの時期に糠部郡から分離したのでしょうか。

今のところ、二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡の郡名が確実に確認できる資料は、寛永11年(1634)年に徳川家光から南部家に交付された物だといわれます。

それによると、六戸、七戸、田名部までを北郡、一戸、金田市、福岡、浄法寺までを二戸郡、三戸、五戸、八戸、種一までを三戸郡、九戸、江刈、葛巻、久慈、野田までを九戸郡と書かれています。

また、南部領内の各郡については糠部郡から分かれた二戸、三戸、九戸、北郡については具体的な範囲が書かれているのに対して、鹿角郡、岩手郡、稗貫郡、和賀郡は具体的な範囲は書かれていません。

このことは、この時期に糠部郡が四郡に分かれたことを示していると思われます。

なお、閉伊郡は閉伊、遠野までと具体的な地名が書かれていますが、おそらくは八戸南部氏の遠野移転に関連しての事と考えられます。

本来は馬淵川流域に勢力を持っていた南部氏が、その本拠を盛岡に移したことにより、広大な糠部郡を統治するために分割する必要があったと考えられます。

https://www.facebook.com/groups/212200627391607

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2024-02-26

糠部郡はどの段階で分割されたか?

天正18年(1590)に南部信直は小田原に参陣し、豊臣秀吉から南部内七郡の所領安堵を受けました。

これによって九戸政実の独立大名としての道が閉ざされ、天正19年(1591)の九戸一揆につながるのです。

このときに安堵された「南部内七郡」は具体的な記述が無く、どの郡をいうのか史家の間で見解が分かれています。

その説を大きく分けると糠部郡を単独の郡と考えるか、糠部郡を四郡に分割して考えるかです。

糠部単独説は糠部、鹿角、岩手、閉伊、志和、稗貫、和賀などで南部七郡を構成していたとする説です。

一方、糠部四分割説によると糠部は二戸、三戸、九戸、北の四郡に分かれていて、糠部四郡に鹿角、岩手、閉伊の七郡が秀吉から安堵されたとする説です。

つまり志和、稗貫、和賀を領したのは九戸一揆の後だったとす考えです。

糠部単独説は、天正20年に書き上げた「諸城破却共書之事」を根拠として、それにかかれた城の肩書きは、稗貫郡、和賀郡、閉伊郡、志和郡、岩手郡、鹿角郡、糠部郡となっていることを根拠としています。

この当時、二戸、三戸、九戸、北は郡を称していないから、七郡は糠部、鹿角、岩手、閉伊、志和、稗貫、和賀としています。

糠部四分割説では、和賀郡、稗貫郡は稗貫氏、和賀氏の所領であり、九戸一揆後に北奥羽平定の功により、津軽の独立で津軽を失った南部氏に対して稗貫郡、和賀郡、志和郡を与えたとする説であす。

両方の説を検証すると、根本的な相違は天正18年に所領安堵の朱印状が発給された段階で、和賀郡、稗貫郡、紫波郡が信直の所領であったかどうかです。

さらに糠部郡がどの段階で二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡が分立されたかが検討する必要があります。

天正16年7月に信直は志和郡を攻めて、領主であった斯波氏を滅ぼしたのですからこの時点で志和郡は信直の領地として認識されていたと思われます。

さらに天正18年に起きた秀吉の奥州仕置きでは、和賀と稗貫は領主が追われ、秀吉により正式に南部氏の所領と認知されました。

つまり天正18年の時点で、志和、稗貫、和賀地方は南部信直の領地として安堵されたのです。

それでは、信直に安堵された南部内七郡が糠部、鹿角、岩手、閉伊、志和、稗貫、和賀だとすれば、どの段階で糠部郡が四郡に分割されたのであしょうか。

次回に考察してみます。

https://www.facebook.com/groups/212200627391607


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愛輪塾仕掛け人

Author:愛輪塾仕掛け人
二戸地域をモーターサイクルの聖地に! その他に地域を元気にする事を目標に「愛輪塾」は活動します。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のこと、レコードのことなど、勝手に思いつくまま書いています。メント歓迎。批判も大歓迎です。

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