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Airinjuku

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世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。


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土人形

土人形を何個か収集しています。

花巻人形も何個かありますが、段ボールに入れっぱなしです。

明日は箱から取り出して、整理しようかと考えています。

人に言わせれば、それだけで人を呼べるとのことですが、果たしてどうなんでしょうか。

本当に人が来てくれればうれしいです。

https://airinjuku.jp/

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日本酒 悦 凱陣 山廃純米無ろ過生 亀の尾(花巻)カートン箱入り【丸尾酒造】
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八戸藩の飛び地

  盛岡藩・八戸両藩は、独特の行政組織としての「通制」をとっていた。領内の郷村支配のため、代官統治地区を「通(とおり)」と称している。八戸藩を分知する以前は、慶安5年(1652年)は47の代官区とし、それに遠野南部氏の1区を加え48の代官区となった。
寛文5年、八戸藩に分轄した際、浜通・長苗代、久慈・軽米、志和の代官区は八戸藩に属した。なぜ志和の一部が八戸藩に属したか不思議である。その他の40区前後の代官区を33区に改編し、通ごとの地域区分は時代により若干の移動があった。

盛岡五代官所 
上田通、厨川通、見前通、向中野通、飯岡通
郡山四代官所 
徳田通、日詰通、伝法寺通、長岡通、花巻八代官所 八幡通、寺林通、万丁目通、笹間(後 二子)通、黒沢尻通、鬼柳通、立花(後 高木)通、安俵通
盛岡藩の行政区(10郡33通) - 安永9年(1780年)
岩手郡 上田通 31ヵ村 厨川通 7ヵ村 雫石通 10ヵ村 向中野通 11ヵ村 沼宮内通 38ヵ村

志和郡 飯岡通 9ヵ村 長岡通 12ヵ村 日詰通 9ヵ村 見前通 9ヵ村 徳田通 9ヵ村 伝法寺通 10ヵ村
稗貫郡 大迫通 7ヵ村 八幡通 21ヵ村 寺林通 20ヵ村 高木通 23ヵ村 万丁目通 14ヵ村
和賀郡 沢内通 7ヵ村 黒沢尻通 12ヵ村 鬼柳通 5ヵ村 安俵通 11ヵ村 二子通 13ヵ村
閉伊郡 大槌通 23ヵ村 宮古通 58ヵ村 遠野通 41ヵ村
九戸郡 野田通 22ヵ村
二戸郡 福岡通 72ヵ村 (当初は浄法寺通もあった)
三戸郡 三戸通 33ヵ村  五戸通 29ヵ村
鹿角郡 花輪通 24ヵ村 毛馬内通 45ヵ村
北郡  七戸通 24ヵ村 野辺地通 12ヵ村 田名部通 37ヵ村

 領内10郡587村を33通に分割し、一通一代官所を原則としていたが、財政が困窮をつげるようになり、享保20年(1735年)、諸経費を節減する緊縮政策のため地方官吏の減員をおこない、代官所を25カ所に整理し、25通25代官所に固定され、地方支配にあたっていた。

 このほかに遠野通は、南部遠野氏は陸奥国代としての知行地であり、市中に町奉行・検断を設け、在方を上下両軍に分かち代官を任命して統治したため、代官の派遣はなかった。
八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用い、勘定頭が代官を指揮して民政に当たる。各区域には各2名ずつ代官が置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された。

町奉行 八戸城下八戸廻 三戸郡 18ヵ村 九戸郡 1ヵ村
長苗代通 三戸郡 12ヵ村
名久井通 三戸郡 11ヵ村
軽米通 九戸郡 19ヵ村
久慈通 九戸郡 18ヵ村
志和  志和郡 4ヵ村
 
 志和通のなかで八戸藩領は、土館村、稲藤村、上平沢村、片寄村の四村であった。八戸藩領内でも有数の米生産地であり、盛岡藩有数の酒蔵が志和地方にあったことから、八戸領志和四村の米は、八戸藩の酒造にも大きく貢献した。なぜ、志和の一部が八戸藩領となったか不思議である。


https://airinjuku.jp/kikou/kikou078.html


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明治42年12月9日

明治42年12月9日、我が国発の滑空飛行に挑んだ日仏3人のサムライがいた。
日本に飛行機という概念の無かった時代である。
上野の不忍池上空を飛んだ滑空機は一般庶民の度肝を抜いた。

軍人の相原四郎中尉、フランス海軍中尉のル・プリウール、そしてもう一人が我らがヒーローの田中舘愛橘である。

田中舘愛橘博士は、岩手県二戸郡福岡(現二戸市)出身の物理学者で、当時我が国の航空界の権威者である。
博士の先祖は浄法寺畠山氏の家臣であり、陸奥国浄法寺で50石を領していた。
本姓は小笠原と伝えられている。実は、

田中舘博士の業績は数々あり、あまりにも多岐にわたっている。
その教え子も日本の物理学を語る上で欠かすことのできない人物ばかりである。

この時の滑空実験は数回実施されたらしい。
多くの新聞社も取材し報道したようだが、どうしたわけかこの時の実験は日本人のほとんどが知らない事実である。
フランスでは、「日本の最初の滑空飛行」といえば多くの人が明治42年に行われた実験を指しているらしい。
最初に成功したのがフランス人のル・プリウールだったのが理由かもしれない。

ル・プリウールという日本贔屓の青年と、相原四郎という実行型の軍人、何よりも田中舘愛橘という純真で真摯な学者がいなければ、日本の航空学は基礎を築かないままに輸入機による飛行時代に突入したのかもしれない。

「何が無くて困る。これが無くて困る。あるだけの材料でできるだけの結果を出せ」が、博士のモットーであった。

「手に入る材料だけで何とかやりくりして創り出すこと」が、ル・プリウールのモットーであった。

「自分で体験してこそ本物」が、相原四郎のモットーであった。

彼らから、我々が学ぶべき事は創造(想像)の精神なのかもしれない。

カシオペア歴史研究所

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長慶天皇伝説

天台寺は長慶天皇の伝説が残っています。

南朝方の有力者南部氏を頼って、八戸から二戸にかけてもいろんな伝説が残ります。

特に名久井の法光寺や天台寺は歴史的ロマンの土地です。

今東光氏も、長慶天皇と天台寺を題材にした歴史小説の構想があったと聞きます。

誰か書いてくれないかな~。

資金があれば懸賞という形で実行するのですがね。

https://airinjuku.jp/

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マタギ

マタギとは、陸奥や出羽地方の山間に住む猟師の呼び名です。一般な猟師やハンターとは違い、マタギ独自の言葉や習俗を持つ技能集団と考えられます。

山では仲間内でしかわからない山言葉を使い、山に入る際には、「山立根本記」という巻物を身に着けていることが知られています。マタギという呼び方は、南部藩、秋田藩、津軽藩での呼び方で、他地方では山漁師が一般的だったようです。

古くから里として知られる地域には、藩主などから交付された「狩猟免状」が残されていることが多く、江戸時代には「熊の胆」が良薬としての価値が非常に高値で取引され、マタギたちは各藩から優遇されたようです。

マタギの語源については定説はなく、色々な説があります。江戸時代の紀行家菅江真澄は、マダ(級・シナの木)の皮をはぐことから、「マダはぎ」が変わったものだといい、アイヌ語気源説とていしょうしています。

変わったところではインド起源説もあります。弘法大師が追いはぎに襲われた時に、追いはぎが大師の威厳に打たれて平状し、改心して元の鬼退治に戻ったということで、又鬼の名を賜ったなどというような話もあります。

マタギの祖先といわれる磐司万三郎が、日光の神様を助けたので猟をしてもよいことになったという伝承もあります。これは日光二荒山神社の縁起の変形であり、山寺立石寺の伝承にも関係しています。

マタギについて紹介されている文献には、マタギが東北全体に分布すると書かれているものがありますが、マタギという言葉は特に青森県、岩手県、秋田県に特有のものだと考えてよさそうです。江戸期には藩境を超えて自由に猟をしてもよかったようです。
民俗学では猟師を表す古語である「山立」の転訛だという説があります。修験道に関係のある言葉のようです。マタギの起源を記した「山立根本記」は天台密教系の物語を踏襲しているようです。

マタギ文化は、もともとあった原日本的文化(縄文文化)に宗教文化が混じったものかもしれません。現日本文化を縄文文化だとすれば、北東北のマタギ文化が残る理由も納得ですね。

https://airinjuku.jp/kikou/kikou.html

マタギ-1




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