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帝国飛行協会

フランスから1枚の写真が送られて来ました。

以前からオートバイのカタログを交換しているマニアからです。

そのマニアの友人宅で保管されていたものです。(所有者を仮にAさんとします)

Aさんのお祖父さんか曾祖父さんが1920年頃まで数年間日本に滞在したことがあるようです。

フランスの軍人に同行した技術者らしいとのこと。

何よりもびっくりしたのは「田中舘愛橘」が写っていることでした。

仮に1920年(大正9年)の写真だとすると、愛橘博士が64歳の写真ということになります。

写真左上に「IMPWRIAL FLYING ASS'N-JAPAN」という文字が確認できます。

「帝国飛行協会」「帝国航空協会」などと訳すことができます。

帝国飛行協会で検索したところ下記のサイトが見つかりました。

http://www.aero.or.jp/gaiyo.html

写真の下部中央に「Y.OZAKI」と書かれた文字が確認できます。

おそらくは尾崎行輝ではないかと思います。

憲政の神様と言われた尾崎行雄の四男で、我が国の航空史を語る上で忘れられない人物です。

1915年(大正4年)には帝国飛行協会へ航空局技師として参加します。

「LT.SAWADA」「LT.SAKAMOTO」は軍人です。LTは「少尉」「中尉」「大尉」などの階級を表しています。

軍に所属する航空機関形の人物と推定されます。

「4048-13」の意味は不明です。大正2年(1913年)の写真という意味でしょうか?。

この年は帝国飛行協会が発足した年でもあります。

ただ、尾崎行輝が帝国飛行協会へ参加するのは大正4年と記録されていますので、時期的にもちょっと早いような気がします。

また、1919年(大正8年)には、帝国飛行協会が国際航空連盟に加入しています。

もしかしたら、このときに帝国飛行協会の主だったメンバーで撮影した写真かもしれません。

なにか情報をお持ちの方は、情報をお願いします。

https://airinjuku.jp/kikou/kikou016.html

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宣教師たちは天皇をどのように呼んだのか? 

 戦国時代の16世紀にやって来たイエズス会の宣教師たちは天皇をどのように呼んでいたのでしょうか。

 フランシスコ・ザビエルとともに日本にやって来て、18年間、日本で宣教したコスメ・デ・トーレスは「日本には、聖権的な絶対指導者が存在する」と記録し、その存在を三人称的な「彼」と表記しています。的確な分析です。トーレスが「彼」としたのは天皇のことであると考えられています。

 織田信長と親交のあったルイス・フロイスは天皇を「Dairi」(ポルトガル語原文)と表現しています。「Dairi」とは 「内裏(だいり)」のことで天皇を指し示します。

 「天皇」という呼び名は、明治時代以降、一般化したものです。「天皇」はチャイナなどの対外向けに制定された漢語表現で、また、法的な称号でもあり、日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったのです。明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で対外向けの「天皇」を一般化させていきます。

 それ以前、天皇は御所を表す「内裏(だいり)」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門(みかど)」と呼ばれていました。「みかど」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、チャイナを意識した対外向けの表現であったと考えられます。

 こうした状況で、ルイス・フロイスは天皇を「Dairi」と表記しました。いずれにしても、16世紀の段階で、天皇を「エンペラー」とする表記はありませんでした。 (続 く)

カシオペア歴史研究所


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特産地鶏 青森シャモロック 正肉1羽(約1.0kg)とシャモロックスープセット

天皇陛下はただ一人の皇帝 1

欧米人が天皇陛下を“キング”とは呼ばない深い理由があるそうです。

 どこぞの隣国は、天皇陛下の歴史と権威が悔しくてたまらず、日王などというとんでもない呼び方をしています。世界が天皇陛下には敬意を表し、英国女王や米国大統領も臣下の礼で迎えます。その権威をひけらかして尊大になることもなく、世界の平和と繁栄を願うのが我が国の天皇陛下です。

 現在、世界で「エンペラー(emperor・皇帝)」と呼ばれる人物はたった一人だけいます。それは日本の天皇陛下です。世界に王様はいるものの、皇帝と言われるのは、天皇陛下を除いて、残っていません。国際社会において、天皇陛下のみが「キング(king・王)」よりも格上とされる「エンペラー」と見なされます。

 「天皇」はチャイナの「皇帝」と対等の称号であるので、「キング」ではなく、「エンペラー」であるのは当然です。これは日本人にとって、当然かもしれませんが、欧米人もこうしたことを理解して、「エンペラー」と呼んでいたのでしょうか。

 一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国 (the Japanese Empire)の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布時よりも、ずっと前に、天皇は欧米人によって、「エンペラー」と呼ばれていました。  (続く)

カシオペア歴史研究所


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天皇陛下即位記念 菊お印抹茶碗 陶楽

ローマ法王庁・バチカン

ローマ法王庁・バチカンには、昭和の殉難者(戦犯とされた)1068柱の霊が祀られているそうです。

戦犯」として裁かれたABC級すべての日本人「法務死」者の霊が、世界のキリスト教カトリックの総本山バチカンに、ローマ法王によって祀られたのです。

調べてみると、正しくは昭和60年(1980/5/21)に「いわゆる戦犯1068人を弔う五重の塔の模型を、日本の僧侶が、当時の法王ヨハネ・パウロ2世に送り、それがサン・ピエトロ寺院に置かれているのが事実です。

ちなみに送ったのは、真言宗醍醐派の仲田順和さんで結構エライ人です。

当時の記事の和訳もあるようです。

・・・
東京の品川寺座主である仲田順和師に案内され、日本から訪れた真言宗の仏教徒たちが昨日の一般拝謁に参加していた。先の戦争で亡くなられた戦没者のための、唱導師(使徒・伝道師)として日本で有名な仲田師は、「聖年」の間にパウロ6世に謁見している。

世界的な戦いを通じて戦死した日本の13万人の学生たちの霊のために、特別の恵み(祝福と加護)を依頼し、また法王に「まことの鐘」を差し出していた。

今年、終戦の35周年に際し、パウロ6世の継承者であるヨハネ・パウロ2世に会うため再びローマにやってくることを欲したのである。

そして戦いの責任者として宣告された10681名の霊の冥福のため、特別の「瞬間」を法王にお願いした。

尊敬と感謝の念の印として、仲田師は彫刻家である星野皓穂氏が造りあげた、

日本の仏教の象徴を再生したひとつの塔を、ヨハネ・パウロ2世に贈った。

日本からの訪問者たちに法王は次のように挨拶した。

「日本から来た仏教徒の訪問者たちを、特別なやり方で、あたたかく歓迎します。

あなた方に平和の祝福を希望します。

われわれ自身についての真実の受容と、われわれの生存の目的がその内部に存する平和を。

すべての人間の威厳に対する尊重が存する他人との平和を。

神がその恩恵をあなた方にお示しにならんことを、祈ります。

芸術的に再生産されたひとつの塔を、法王に寄贈するために日本から訪れた仏教徒の集団にヨハネ・パウロ2世が挨拶した。

・・・

第二次大戦当時のバチカンは、ロシアの共産主義を最大の敵と見なしていた時期があったと何かで読んだ記憶があります。バチカン経由で南米に逃れたナチス党員も多かったことは歴史的に証明されていますね。

他のサイトを検索すると興味深い記事のたどり着きました。

かつて、米軍が靖国神社の壊す計画をたてていたとき、それを押しとどめ、神社の存続を促したのが、当時の上智大学学長、バチカン日本支部代表のブルーノ・ビッテル神父およびメリノール宣教会のパトリック・バーン神父の両名だったそうです。

両神父は、マッカーサーの靖国神社の焼却処分案に猛烈に反対し、ビッテル神父は、こんな言葉を残しています。

「いかなる国家も、その国家のために殉じた戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、国家のために命を捧げた人に“敬意を払う”のは自然の法、平等の真理でなければならない」

「もし靖国神社を焼き払えば、それは連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。米軍の歴史に不名誉な汚点を残すことになろう」

「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。われわれは、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰する者であろうと、(日本の)国家のために殉じたものは、すべて、靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」

20世紀最大の悲劇は共産主義という、人のものを奪って生きるという思想が、人類を幸福にすると信じられたことです。

毛沢東、スターリン、ポルポトなど、歴史に名を遺す彼らは共産主義者ですよ。

近代史を勉強しようと思うこの頃です。

https://airinjuku.jp/kindaishi/kindai.html


ウクライナ人だから気づいた日本の危機 ロシアと共産主義者が企む侵略のシナリオ

満洲国があれば

 チャイナが自国領土と主張している満洲は、中華思想では化外の土地でした。そして大日本帝国が後ろ盾となって建国した満洲国ができるまで、異民族の国でした。

 満洲国が建国されると、なぜ百万人ものチャイナ人は万里の長城を越えて、満洲国に流れ込んだのか不思議です。

 シナ王朝が4000年かかっても実現できなかった近代国民国家が東アジアにできたのです。

 もし満洲国が今日まで存続していたら、チャイナ、ロシア、モンゴル、朝鮮の歴史は別なものになっていたと思います。

 『満洲国』はアジアの希望でした。五族協和が実現すれば、大日本帝国に次ぐ近代民主国家になっていたはずです。

 中華民国は、アメリカ合衆国をモデルに造られた共和制国家でした。米国は英国13州が独立し、州を増やしながら連邦国家を作り上げました。

 一方中華民国は、米国をモデルにしましたが、政党が600以上もあり、政争、闘争が絶えず武力に訴える以外に、まともに政府を作ることができない状態です。何度も王朝が変わり、異民族に支配され続けた歴史ですから、『一君万民制』という重荷があったからかもしれません。

 満洲国があった時代は、チャイナ周辺の日本、台湾、朝鮮半島、満洲、香港はチャイナ本土よりも安心して暮らせる社会でした。
大日本帝国の敗戦と、満洲国の消滅は東アジアにとって大きな損失なのは歴史が証明しています。

https://airinjuku.jp/kindaishi/kindai.html


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大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」
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Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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