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2023-01-05

秋山真之と野球

俳人の正岡子規は野球狂として知られます。

少年期に同郷の秋山真之も野球に親しんだと言われます。

ある書物によれば、海軍兵学校で野球を始めたのは真之だったようです。

その書物によれば、あるとき真之が、アメリカで出版された小冊子を片手に、「これには米国で行われているベースボールという遊技のルールが書いてあるから、翻訳して我々でもやってみようじゃないか」と提案したそうです。

そして、真之が翻訳したルールを兵学校生徒達が覚え、チームを作って野球を始めました。

当時はバットが無かったため、棒きれで代用したといます。

また、グローブも無く、素手でボールを掴んでいたため、真之の左手小指は後年まで硬直してしまったともいわれます。

日本の野球史に、秋山真之が足跡を残していることをうれしく思います。

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2022-02-27

勝ち投手はどちら?

母校の大先輩・小田野柏さんは、昭和12年に阪急球団に入団しました。

その年に巨人軍と対戦し先発します。

この試合には、後に打撃の神様と言われる川上哲治がデビューしました。

川上が初めて対戦した投手が小田野で、見事センターフライに打ち取っています。

小田野投手は5回を投げきり、先制点を奪われましたが、5回裏に阪急軍が逆転しました。

6回からは別の投手が投げて、試合は阪急軍の勝利。

いまであれば勝ち投手は小田野柏だと思います。

しかし公式記録では石田投手が勝ち投手です。

当時は記録員の判断で勝ち投手を決めていたとも言います。

当事者の小田野先輩は、「川上のデビューした試合の勝ち投手は俺だ。」と語っていました。

はたして勝ち投手は誰なんでしょうか?

(皇紀2682年2月)

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2022-01-24

田淵幸一

子供の頃はジャイアンツが嫌いでした。

そのことは田舎の子供にとっては一大事です。

相撲も大鵬はあまり好きではなく、どちらかと言えば柏戸が贔屓でした。

そんな子供の取ってのヒーローは田淵幸一でした。

父親にどこかに連れて行ってもらった記憶がありませんが、一度だけプロ野球観戦をした記憶があります。

どういった経緯かはわかりませんが、田淵幸一のサインをもらった時はうれしかったです。

その時のサインはノートに貰ったのですが、奇跡的に残っていました。

秘密基地に展示したいと思います。

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2022-01-21

野球百年

ヤフオクで資料を入手しました。

送料込みで700円でした。

内容的には「野球五十年」を下地にしたものです。

でも大和球士さんの本は全部揃えたいと思っています。

送料を除けば、100円ぐらいで入手できたのはうれしいです。

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2022-01-13

アルバート・G・ベイツ

野球史を研究していて、何かの会報にアルバート・G・ベイツ氏の事を投稿したことがありました。

明治6年に叔父のウィリアムとともに来日し、開拓使仮学校の英語教師として雇われました。

来日当時は19歳だったようです。

開拓使仮学校では同年代の日本人に野球を教えた人物でもあります。

開拓使仮学校が発展した札幌農学校一期生の伊藤一隆が、同級生である大島正健に語った内容は、開拓使仮学校に野球チームがあったことを証言しています。

 「明治6年ごろ、大蔵省の雇であった米人ウイリアムス氏の甥ベーツ氏が開拓使仮学校の英語教師に雇われていたが、この人が野球の熱心家で、本国から持参した一本のバットと三個のボールを大切にしていた。ところが相手がないのでどうすることもできず、仕方ないので仮学校の生徒達にゲームの方法を教え、彼らに二つのチームを組織させ、毎日放課後に校庭で対戦させ、ベーツ氏自らが審判をつとめていたが、面倒な野球のルールを、英語がまだよく判らない少年達に会得させようというのであるから、ベーツ氏の苦心は一通りのものではなかった。

「当時、築地にあった海軍兵学校では、英人の教官たちがクリケットをやっていたが、これ以外の野外競技はどこにも行われていなかった。従ってベーツ氏が日本にはじめて野球を持ち込んだ人であると申されようが、生徒たちに技術上の要点や盗塁の方法などを呑み込ませる苦心と言ったら並大抵のことでなかった」

言葉の壁を克服し必死に野球を教えようとするアメリカ人と、必死に覚えようとする日本人がなんとも微笑ましいです。

 「そこへ、幸いにも開拓使から米国へ留学させてあった得能通要、大山助市、服部敬次郎の三少年を呼び戻されて仮学校生徒になり、米国留学中、実際に覚えてきた野球技を懇切丁寧に指導したのみならず、それらの人々は英語も達者であったから、在学生の腕前は飛躍的に進歩した。・・・・・・・・・素手で球を捕るのに悩まされた連中は、剣道とコテを手にはめてみたり、黒塗りのお胴を胸当てにしてみたが、立ち居振る舞いが不自由でこれはいかんということになった。ところで、そのうちにベーツ氏が米国に注文したさまざまな道具が届いて士気大いに振るうことになった。クラーク先生の直弟子中に数えられる荒川重秀、小野兼基の両人も熱心なメンバーであったが、そのうちにベーツ氏が急死されて野球熱は一時下火になった」

開拓使仮学校で野球広なまったときに思いがけない事態が起きました。

ベーツ氏の急死したのです。

Albert.G.Bates(ベーツ)の来日は明治6年(1973年)で、亡くなったのは明治8年(1975年)1月13日のことだったようです。

わずか21歳でした。

横浜山手外人墓地19区1に埋葬されたと伝わっています。

昨日(令和4年1月12日)、そのベーツ氏に関する資料を送っていただきました。

送ってくださったのはジンギスカン鍋などを研究している方です。

日付などから判断すると、ベイツ氏が亡くなった次の日なので死亡告知のようなものでしょうか?

調査を続行します。

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Author:愛輪塾仕掛け人
二戸地域をモーターサイクルの聖地に! その他に地域を元気にする事を目標に「愛輪塾」は活動します。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のこと、レコードのことなど、勝手に思いつくまま書いています。メント歓迎。批判も大歓迎です。

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