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終戦は9月2日

8月15日に関して個人的な意見を述べます。

一般的には8月15日を終戦記念日と考える日本人は多いですが、終戦は9月2日の降伏文書に調印した日です。8月15日以降も各地で局地戦がありましたし、ソ連は日本進攻を繰り返していました。8月15日から9月2日にあったことを検証する必要があります。

満洲や千島に残っていた日本兵が踏ん張ってくれたからこそ、今でも自由に北海道や九州に行けるのです。

8月15日は天皇陛下がポツダム宣言を受諾することを決めた日なのです。終戦はあくまでも9月2日です。

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歴史上で一度も台湾を支配したことは無い中華人民共和国

台湾をチャイナの領有だと信じる日本人が意外に多いのに驚きます。ここにも日本の歴史教育の欠陥がわかります。そして中華人民共和国と名乗る国は、歴史上で一度も台湾を支配したことはありません。

しかし、台湾を実効支配していない中華人民共和国は国際社会に対し、「日本が台湾を中国に返還したからだ」と強調しています。これこそ歴史の捏造です。

一、日本は1945年の敗戦で中華民国に台湾を返還した。
二、中華民国は一九四九年に滅び中華人民共和国が台湾の主権を継承した。
三、台湾にある中華民国は不法で、中華人民共和国の一地方政府にしか過ぎない。

つまり、日本の敗戦で中華民国が「台湾も返還」を受けたが、その後、中華民国が滅んで中華人民共和国が成立したため、当然台湾もその一部となったと言うわけである。

ところで日本は本当に台湾を中華民国に「返還」した事実はあるのでしょうか。

台湾を領有していた日本は大東亜戦争に敗れた後、マッカーサーが9月2日に発した蒋介
石の国民政府(中華民国)に降伏せよという「一般命令第一号」に従い、1945年10月25日に台湾の台北市公会堂で行われた降伏式に臨んだのです。

この降伏式で日本は中華民国による台湾・澎湖諸島接収に応諾署名しました。澎湖列島の領土人民に対する統治権、軍政施設並びに資産を接収する」という「行政長官第一号命令」を受け入れました。つまり連合国による台湾の管理に同意したのです。

ところが、中華民国を代表して降伏式に臨んでいた陳儀はラジオを通じ「台湾および澎湖列島は正式に中華民国の版図に入り、すべての土地、人民、政治はすでに中華民国国民政府の主権下におかれた」という声明を発表しました。中華民国は台湾接収を命じられただけにも関わらずです。安藤利吉台湾総督は、台湾の人たちに申し訳ないとして服毒自殺を遂げています。

日本が台湾を1945年10月に中華民国に返還していたとするなら、日本は1951年9月8日に署名したサンフランシスコ平和条約が成り立ちません。実は、このサンフランシスコ平和条約を、中華民国自身が日本と調印した「日華平和条約」で承認しています。

≪日本国は、1951年9月8日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本
との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第2条に基き、台湾及び澎湖諸
島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが
承認される。≫

日本が大東亜戦争の結果受け入れたのは台湾に対する施政権を放棄しただけで、主権に関しては連合国に任せるというものです。その連合国で台湾の主権先が決定していない以上、主権は未だに日本にあるという結論です。

だとするならば、台湾政府が日本政府に独立を申し出て日本国政府が承認すれば円満に台湾独という国家が誕生することになります。個人的には日本国台湾道で良いと思っています。

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大東亜会議共同宣言

大東亜会議共同宣言は、アジア諸国に独立のきっかけを与えた宣言です。大東亜戦争に勝利したつもりでいた英仏欄は、戦争終結後に植民地と思っていた地域の独立を認めざるを得ませんでした。日本の左翼陣営は絶対に認めませんが、大日本帝国の功績です。

しかし、カイロ宣言は知っていても大東亜会議共同宣言は国史の中でほとんど教えられません。その内容は、現代語では次の通りです。

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、同義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。

大東亜会議は昭和18年11月5日東京の国会議事堂で開かれた会議です。日本(首相東条英機),中華民国南京政府の汪兆銘,タイ(首相代行ワンワイタヤコン),フィリピン(大統領ラウレル),ビルマ(大統領バモー),満州国(国務総理張景恵)、自由インド仮政府代表(主席S.C.ボース)が陪席したものです。

チャイナ以外のアジア人からすれば、「ヨーロッパ人の植民地政策は間違っているから、私達アジアの国々は団結してがんばります」というものでした。本来ならばアジア文明のリーダーになるべきチャイナは、内戦を繰り返すばかりです。

これに対して、米英仏とチャイナ、それにソ連を加えた連合国は、「イエローモンキーが調子こくな、アジアのサルどもは俺たちに従え」と二発の原子爆弾を広島と長崎に落としたのです。

しかし、大日本帝国が植え付けた「独立心」は、アジア各国に広がり多くの独立国を生んだのです。

さて、この事を知っている日本人はどれぐらいいるでしょう?。卑屈になることはありません。堂々とこの時代の日本がしてきたことを伝えればいいのです。日本人は胸を張って生きていきましょう。

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東條英機

  A級戦犯という犯罪は正式には無いのですが、某勢力の陰謀で日本人の歴史観に大きな影響を与える言葉です。そしてその代表といえば東條英機です。歴史を深く研究すると、彼は人の好い軍人で、大東亜戦争の責任を一身に受けて汚名を着せられた軍人だと思います。

  彼に代わる責任者といえるのが近衛文麿ですが、彼の戦争責任について近年は叫ばれていますが、一般的には開戦に反対した政治家という評価がされています。

  実は東条英機が、ユダヤ人から「英雄」と称えられていたのを知っている日本人はほとんどいません。この記事のモトネタはラビ・マーヴィン・トケイヤー氏著「ユダヤ製国家日本」に書かれています。ユダヤ人が東條英機を「英雄」と称えるポイントは二つです。

  1937年、ナチスの暴挙を世界に喧伝するためにハルビンで極東ユダヤ人大会が開催されました。ハルビン特務機関長だった樋口季一郎らが、大会に出席したことに対し、日本の同盟国であったドイツが抗議してきました。しかし、その抗議を樋口の上司だった東條が握りつぶしたのです。

  日本政府はドイツと同盟を結んでいましたが、人道的見地から、ナチスの迫害から逃れたユダヤ人を満洲国に入国させました。そのことにドイツ外務省から激しい抗議がありました。その抗議を、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と東条英機が一蹴しました。実際に決断したのは樋口季一郎だという研究もありますが、少なくとも上司で責任者の登場が許可しなければ実現しないものでした。

  エルサレムの中心地に「ゴールデンブック」というものがあって、ユダヤ民族に貢献した人、ユダヤ人に救いの手を差し伸べた人達を顕彰するためにあるそうです。この「ゴールデンブック」には二人の日本帝国陸軍軍人、樋口季一郎中将と安江仙弘大佐の名が刻まれています。

  そこには東条英機の名前は刻まれていません。実務上でユダヤ人と交流が無かったためです。特務機関の幹部として、ハルビンのユダヤ民族協会を通してユダヤ人社会との交流があったのが樋口や安江でした。

  欧米の歴史研究家の中では、東条英機がユダヤ民族協会との交流があれば、「ゴールデンブック」入りは勿論のこと、東京裁判の判決も違ったものになったとの研究もあります。

  この満洲を舞台に繰り広げられたユダヤ人救出を、共産チャイナは歴史の書き換えを画策し、現在ではチャイナ共産党の業績だと宣伝しているようです。歴史戦に負けてはいけません。微力ですが発信を続けます。

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スターリンのソ連に対抗できたのは軍事力があったから

ソ連帝国主義と共産主義の敗北。独裁者スターリンのソ連帝国主義は人類の敵でした。ドイツのヒトラーも当初はソ連の壊滅を目的に戦っていました。日本は共産主義勢力ソ連と対決するためにドイツと手を組んでソ連と戦いました。その行動はバチカンも支持していました。

スターリンに騙された英米仏は、本来の彼らの敵を見誤り、ドイツ降伏後の日本を標的として日本を追い詰めることに成功します。本来は共産主義とソ連の南下政策に対する戦いだったのですが、コミンテルンの攪乱作戦にまんまとはまった日本は、ドイツの降伏によって同盟国はほとんどなくなってしまいました。

ロシア共産革命後、ソ連は世界中に共産主義を輸出し、中央アジア、モンゴルなどを占領していました。ソ連共産主義は日本の最悪の敵でした。何十年間、ソ連は日本に対して敵対的な政策をとり、朝鮮と南樺太を奪おうとしていました。

ソ連はゾルゲなどのスパイを使い、日本の経済・政治・軍事の状況についてさぐりだしました。ソ連の共産主義者は満州国国境での軍事的挑発をやめません。1944年だけで、そのような侵犯が約200件あり、そのなかには満州国領に砲撃という場合が数多くありました。

ソ連は1941年4月に締結された日本との中立条約を一方的に破棄し日本との開戦に踏みきったのです。1945年8月8日、共産ソビエトは日本に対して宣戦布告しました。ソ連兵の任務は、共産主義の拡大と日本領土の奪取にあったのです。このソビエトの暴挙に対して、関東軍と南樺太、千島列島の日本軍はソビエトの侵攻を食い止めたのです。

ソビエトが参戦をする直前の8月6日の朝、アメリカ軍の飛行士は、大統領H.トルーマンの命令に従って、広島に原子爆弾を投下しました。市民の無差別殺戮です。8月9日、アメリカ軍は第2の原子爆弾を港湾都市の長崎に投下しました。これらの都市に対する爆弾投下の結果、約50万人の人びとが死亡します。

日本の都市に対する原子爆弾の投下は、軍事的な必要によってなされたものではありませんでした。この野蛮な行為によって、アメリカ政府は、核の脅威によって世界支配を成し遂げようと望んだのです。二つの原子爆弾は、戦争の結末に決定的な影響を与えることはできませんでした。日本の軍部には徹底抗戦を叫ぶ勢力もあったのです。

8月15日、天皇陛下の英断により日本はポツダム宣言を受け入れました。8月19日から日本軍は、降伏・投降し始めます。日本に戦闘の意思が無いと見たソビエト軍は南樺太と千島列島を不法に侵攻したのです。北海道への侵攻も目論んだのですが、日本軍の抵抗によって果たすことができません。

戦後になり米国は、ソビエトの拡大と共産主義に対して孤軍奮闘していた日本を理解します。そして日本の復興を助け、経済戦争でソビエト共産主義を倒したのが1991年の事でした。ソビエトは倒れましたが、共産党一党独裁の覇権国家が日本の周囲にはいまだに存在するのです。

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世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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