FC2ブログ

那須下野国の浄法寺

 群馬県と栃木県の地域は、古代には毛野国と呼ばれました。大和朝廷の勢力がこの地方に及ぶと、上野国と下野国に別れます。上野国緑野郡には浄法寺が建立されます。畠山重忠と関わりの深い一族の勢力下にあり、上野国浄法寺は関東地方における天台寺院として隆盛を極め現在に伝わります。

 那須下野国にも浄法寺が建立されたようです。那須地方では7世紀に入ると、大形の古墳にかわり小円墳や横穴墓が一定の場所に群をなしてつくられました。また、このころ、那須地方では、初めてこの地で仏教寺院が建立され浄法寺と呼ばれたようです。

 那須という地域は栃木県の北端に位置していて、古代の始めには下野国とは別の独立した那須国があったともいわれます。 畠山一族と関わりの深い武蔵七党の勢力範囲で、陸奥浄法寺氏との関連があったのは確実と思います。

 古代の史跡・遺跡が大変に多いところでもあります。多くの古墳に那須官衙遺跡、浄法寺廃寺などの古代寺院跡、そして「那須国造碑」は日本三古碑のひとつに挙げられています。

 何よりも陸奥国への入り口であり、蝦夷討伐の後方補給基地でした。江戸期にこの地を治めた大関氏の家臣浄法寺氏も、明らかに下野国浄法寺に関係した一族と思われます。

https://airinjuku.jp/

--[PR]----------------------------------------------------------------
        北海道名物松尾ジンギスカン通販!
       新鮮味付ジンギスカンを北海道からお届け!
https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=2TPAYI+4A7AGI+2PWG+60OXF
----------------------------------------------------------------[PR]--
スポンサーサイト



浄法寺氏を考える 藤岡市

 浄法寺氏を考えるうえで群馬県藤岡市も重要な場所です。上野浄法寺城については、山城としての三ツ山城、金鑚御嶽城を防御ラインとした地域城という見解があります。古い記録によると、浄法寺氏(浄法寺左近大夫)が居城し、後に平沢氏(長井氏)が支配しています。長井氏も畠山重忠につながります。

 しかし、上野浄法寺氏の事跡については不明なことも多く、南北朝期に高山・小林一族とともに足利方に加わったとされているほか、のちに戦国期の「安保文書」に断片的に登場しているもののかなり不明な部分が多いものと思われます。

 安保文書の安保氏も、戦国末期には陸奥鹿角郡に移り鹿角の名族となります。陸奥浄法寺氏とも姻戚だったようで、畠山重忠に連なる一族の足跡が、おぼろげながら見えそうな気がします。

 鎌倉浄法寺の畠山一族が上野国で天台宗を後ろ盾にして勢力を拡大し、那須地方に移り、最後には陸奥浄法寺に落ち着いたとは考えられないでしょうか。

https://airinjuku.jp/joboji/joboji-hatakeyama/hatakeyama-top.html

007_20200131130951806.jpg

牧野酒造 榛名山 本醸造 [ 日本酒 群馬県 1800ml ]

天台時の謎!

二戸市浄法寺町の天台寺は、カシオペア地域内では九戸城と並ぶ歴史的な遺産である。
今東光氏や瀬戸内寂聴尼に縁のお寺として脚光を浴びているが、実は歴史的謎の多い寺でもある。

・宗派をそのものを名乗る国内唯一の寺院である
・寺なのに柏手を打って礼拝する
・かつては岩木山を支配していた
・宮内庁が管轄している土地がある
・長慶天皇に関する伝説がある

これだけでも歴史的ロマンをかきたてるが、さらにもう一つ歴史的なものが残っている。
祭礼の時に使われる太鼓である。

平成2年の暮れに、この太鼓の鳴りが悪いということで修理に出すことになった。
この太鼓の修理を請け負った業者は、太鼓の皮をはがした瞬間思わず息を呑んだ。
胴の内部に修理歴が墨書でびっしり書かれていたからである。

墨書1
 吊り金具の両脇に「天台寺太鼓事奉造立意趣者」と書かれていた。
 そして残念なことにそれに続く文字が、後述する墨書6のために削り取られ内容が不明になってしまった。

墨書2
 元中9年(1392年)の修理の際に書かれたもの

墨書3
 文安5年(1448年)の修理の際に書かれたもの

墨書4
 永禄2年(1559年)の修理の際に書かれたもの

墨書5
 元禄15年(1702年)の修理の際に書かれたもの

墨書6
 宝暦5年(1755年)の修理の際に書かれたもので、墨書1の文字を削って書かれている。

以上のことから確実のわかることは、この太鼓が作られたのが墨書2の元中9年よりも間違いなく古いと言うことだ。
元中9年という年号でさえ、岩手県内では最古の太鼓といえる。

国内に残る太鼓で最も古いものは、兵庫県朝光寺の永仁6年(1298年)のものである。
天台寺の太鼓が初めて改修された元中9年(1392年)より96年ほど古いことになる。
この最初の改修が行われた元中9年(1392年)でさえ、実は国内でベスト10に入る古さである。
墨書からわかることは、改修までの長い期間は約110年、短い期間は約50年である。

ところで元中9年というのは、実は南朝の年号なのである。北朝では至徳9年である。
更にこの元中9年より60年ほど前の正平18年の鰐口も残っている。
長慶天皇伝説など、こちらも歴史的ロマンを感じさせてくれる。

管理人は、天台寺の太鼓は源存じている中で日本一古い太鼓だと信じて疑わない。
いつ作られたのかと言えば、藤原秀衡没後100年で、金色堂の修理が行われた時期と予想している。
正応元年(1288年)にこの地方に影響のあった南部氏、もしくは浄法寺氏(畠山重忠の子孫)が寄進したものであろう。
南部氏も浄法寺畠山氏も、当時鎌倉からこの地を与えられた北条氏の被官(代理人)である。

https://airinjuku.jp/kikou/kikou.html

南部美人 純米吟醸 1800ml 岩手の日本酒

鹿角の関良輔

 浄法寺氏の家臣であった勝又氏は、浄法寺氏の没落とともに鹿角地方から大館方面に分散していたが、浄法寺氏の家臣団で新田開発が許され、二戸地方に戻った。

 一部は鹿角に残り剣術師範として重用された。毛馬内で剣術を教えていた勝又藤八はその後、流派を花輪の関右平太に譲ったという。この右平太の息子が良輔 で、相馬大作(下斗米秀之進)に師事し、その片腕となって矢立峠で津軽藩主を襲 撃、失敗して江戸に逃れたが、幕府に捕えられ、下斗米秀之進と共に小塚原で刑 死、獄門になったという。時に23才であった。

 良輔の母は原田氏で、福岡の出身であった。長じて福岡で剣を学んだようだ 
この関良輔の名は、大作の名 のかげにかくれて、出身地の鹿角の人でも知らない人も多いので、事の正否はともかくとして、その純真な心意気を称えたい。

 本姓は小田島であったが、浄法寺の関家に養子に入り、文政5年(1822)に小塚原(こづかっぱら)の刑場で処刑された。
この事件は、幕末の志士にも大きな影響を与えた。関良助が明治維新まで生きていたら、新しい世の中をどのように評価したであろうか。とても興味深い。

https://airinjuku.jp/

siro04.jpg


謎の天台寺

元々は浄法寺と呼ばれていたであろう天台寺。

調べれば調べるほど謎が深まります。

周辺には「オサルベ」「ナガドロ」「ジャスベリ」などの不思議な地名がのころます。

長慶天皇の伝説もの残り、日本一古いかもしれない太鼓があります。

少しずつ調べたことを公開していくつもりです。

カシオペア歴史研究所

RIMG0044_20190914084750244.jpg

ローカル路線バス乗り継ぎの旅 宮崎~長崎編 [DVD]

新品価格
¥3,195から
(2019/9/14 08:50時点)


訪問者の足跡
プロフィール

カシオペア歴史研究所

Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

カレンダー
03 | 2020/04 | 05
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR