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Airinjuku

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世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。


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鹿角の関良輔

 浄法寺氏の家臣であった勝又氏は、浄法寺氏の没落とともに鹿角地方から大館方面に分散していたが、浄法寺氏の家臣団で新田開発が許され、二戸地方に戻った。

 一部は鹿角に残り剣術師範として重用された。毛馬内で剣術を教えていた勝又藤八はその後、流派を花輪の関右平太に譲ったという。この右平太の息子が良輔 で、相馬大作(下斗米秀之進)に師事し、その片腕となって矢立峠で津軽藩主を襲 撃、失敗して江戸に逃れたが、幕府に捕えられ、下斗米秀之進と共に小塚原で刑 死、獄門になったという。時に23才であった。

 良輔の母は原田氏で、福岡の出身であった。長じて福岡で剣を学んだようだ 
この関良輔の名は、大作の名 のかげにかくれて、出身地の鹿角の人でも知らない人も多いので、事の正否はともかくとして、その純真な心意気を称えたい。

 本姓は小田島であったが、浄法寺の関家に養子に入り、文政5年(1822)に小塚原(こづかっぱら)の刑場で処刑された。
この事件は、幕末の志士にも大きな影響を与えた。関良助が明治維新まで生きていたら、新しい世の中をどのように評価したであろうか。とても興味深い。

https://airinjuku.jp/

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謎の天台寺

元々は浄法寺と呼ばれていたであろう天台寺。

調べれば調べるほど謎が深まります。

周辺には「オサルベ」「ナガドロ」「ジャスベリ」などの不思議な地名がのころます。

長慶天皇の伝説もの残り、日本一古いかもしれない太鼓があります。

少しずつ調べたことを公開していくつもりです。

カシオペア歴史研究所

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浄法寺城下散策

暑いですが、浄法寺城下を1時間ぐらい散策しました。

自動車で移動するようになってから、じっくり見ることがありませんでした。

眺めてみると新鮮です。

まずは岩手でも有数の資産家として知られる小田島家です。

戦時中は国立博物館の収蔵品が疎開しました。

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少し離れた場所に、相馬大作の同志・関良助が養子に入った関家です。

関良助の事績を調査中です。

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実は、東京では相馬大作信仰というものがあるようです。

現在、信仰について調査中ですが、何らかの記念碑などがあってもいいかと思います。

我が家の土地も、元々は関家の土地だったともいわれます。

https://airinjuku.jp/

三人の相馬大作(ゴマブックス大活字シリーズ)

松岡舘

浄法寺氏と関わりの深い松岡氏の拠点散策しました。

歩いて2時間ぐらい。

気持ちの良い汗をかきました。

原稿にまとめる前に飲み始めました。

喜多方の酒、どんどん入って困ります。

まとめる前に酔いつぶれそうです。

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天台寺雑感 平成31年4月4日

「北方の人間」守る拠点?

山に囲まれた浄法寺町は今でも外部との交流はほとんど旧鹿角街道に頼っている。

冬は1メートル近くの雪に閉ざされ、農家の働き手の多くは葉タバコの収穫が終わると出稼ぎに行く土地柄だ。

天台寺はこの土地の小高い丘(標高320メートル)を拠点に早くから青森、秋田方面へと仏教の影響力を伸森嘉兵衛岩手大学名誉教授は「生きた人間にとって平地の方が食料を確保する点でも環境は良好なはずなのに“ばし、北東北の布教活動の中心になっていた。

山岳寺院”を築く必要はどこにあったのだろう」と疑問を投げかける。

天台寺の古い歴史を知る手がかりがない現在、研究者の考え方もまちまちだ。

高橋富雄東北大教授は「古代東北の地に、北に向かって伝播していった中央文化が、しっかりと根をおろしたことを物語る遺跡だ」と“歴史のシンボル論”主張する。

それによると「鎮護国家を旗印にした我が国の天台宗は9世紀半ば、その理想を実現しようと、六か国に法華経を置く塔(六所宝塔)を建てた。

関東以北では栃木と群馬がその地だ。天台寺はこの理想を北東北にも実現させようとしたものだ。

古代中央の軍事的北限は志波城が築かれた今の紫波郡あたりまでで、それ以北は蝦夷の住む‘異邦の地’であった。

青森、岩手、秋田の国境である地に建てられた天台寺は、北方の政治も文化も人間の生活も守るという大変な使命を負ったものだ」と主張。

“山岳寺院”の形にも「平地に寺院を建て学問所とした奈良仏教(南都六宗)に対して新興の天台宗は比叡山を厳しい修行の場としていた。

それは“守られたもの”ではなく、自らが“守る”ものとの気概だった。

天台寺も当然同じはずだ」という。

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