FC2ブログ

訪問者の足跡


プロフィール

Airinjuku

Author:Airinjuku
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。


カレンダー

11 | 2019/12 | 01
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

最新記事


最新コメント


月別アーカイブ


カテゴリ


メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:



謎の天台寺

元々は浄法寺と呼ばれていたであろう天台寺。

調べれば調べるほど謎が深まります。

周辺には「オサルベ」「ナガドロ」「ジャスベリ」などの不思議な地名がのころます。

長慶天皇の伝説もの残り、日本一古いかもしれない太鼓があります。

少しずつ調べたことを公開していくつもりです。

カシオペア歴史研究所

RIMG0044_20190914084750244.jpg

ローカル路線バス乗り継ぎの旅 宮崎~長崎編 [DVD]

新品価格
¥3,195から
(2019/9/14 08:50時点)


スポンサーサイト



浄法寺城下散策

暑いですが、浄法寺城下を1時間ぐらい散策しました。

自動車で移動するようになってから、じっくり見ることがありませんでした。

眺めてみると新鮮です。

まずは岩手でも有数の資産家として知られる小田島家です。

戦時中は国立博物館の収蔵品が疎開しました。

RIMG0003_2019081811380921c.jpg

少し離れた場所に、相馬大作の同志・関良助が養子に入った関家です。

関良助の事績を調査中です。

RIMG0004_20190818114047041.jpg

実は、東京では相馬大作信仰というものがあるようです。

現在、信仰について調査中ですが、何らかの記念碑などがあってもいいかと思います。

我が家の土地も、元々は関家の土地だったともいわれます。

https://airinjuku.jp/

三人の相馬大作(ゴマブックス大活字シリーズ)

松岡舘

浄法寺氏と関わりの深い松岡氏の拠点散策しました。

歩いて2時間ぐらい。

気持ちの良い汗をかきました。

原稿にまとめる前に飲み始めました。

喜多方の酒、どんどん入って困ります。

まとめる前に酔いつぶれそうです。

https://airinjuku.jp/

IMGP4266.jpg

ほまれ酒造 會津ほまれ クロカップ [ 日本酒 福島県 200ml×30本 ]

天台寺雑感 平成31年4月4日

「北方の人間」守る拠点?

山に囲まれた浄法寺町は今でも外部との交流はほとんど旧鹿角街道に頼っている。

冬は1メートル近くの雪に閉ざされ、農家の働き手の多くは葉タバコの収穫が終わると出稼ぎに行く土地柄だ。

天台寺はこの土地の小高い丘(標高320メートル)を拠点に早くから青森、秋田方面へと仏教の影響力を伸森嘉兵衛岩手大学名誉教授は「生きた人間にとって平地の方が食料を確保する点でも環境は良好なはずなのに“ばし、北東北の布教活動の中心になっていた。

山岳寺院”を築く必要はどこにあったのだろう」と疑問を投げかける。

天台寺の古い歴史を知る手がかりがない現在、研究者の考え方もまちまちだ。

高橋富雄東北大教授は「古代東北の地に、北に向かって伝播していった中央文化が、しっかりと根をおろしたことを物語る遺跡だ」と“歴史のシンボル論”主張する。

それによると「鎮護国家を旗印にした我が国の天台宗は9世紀半ば、その理想を実現しようと、六か国に法華経を置く塔(六所宝塔)を建てた。

関東以北では栃木と群馬がその地だ。天台寺はこの理想を北東北にも実現させようとしたものだ。

古代中央の軍事的北限は志波城が築かれた今の紫波郡あたりまでで、それ以北は蝦夷の住む‘異邦の地’であった。

青森、岩手、秋田の国境である地に建てられた天台寺は、北方の政治も文化も人間の生活も守るという大変な使命を負ったものだ」と主張。

“山岳寺院”の形にも「平地に寺院を建て学問所とした奈良仏教(南都六宗)に対して新興の天台宗は比叡山を厳しい修行の場としていた。

それは“守られたもの”ではなく、自らが“守る”ものとの気概だった。

天台寺も当然同じはずだ」という。

http://airinjuku.web.fc2.com/

040401.jpeg

キンドルの電子書籍出版代行なら「パブフル」

桓武平氏秩父権守重綱

陸奥浄法寺の名族浄法寺氏を調べています。畠山重忠の伝説と重なりますが、今回の見つけた資料に、興味深いことが書いてありましたので紹介します。

それによると、桓武平氏秩父権守重綱から出た畠山氏の分流とあります。秩父重能は畠山庄司になり、畠山に移り住み畠山を称したのです。重能の子が畠山重忠で源頼朝の信頼が厚く、鎌倉武士の典型と仰がれました。北条時政の娘を娶り頼朝とは相兄弟の仲です。
 
元久二年、重忠の嫡子六郎重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅と争って、時政に殺害され、重忠は武蔵二股川で幕府軍と戦って討ち死しました。これは、時政が画策していた朝雅将軍擁立計画を打倒するために、北条義時がたてた策に畠山氏が利用された結果とさています。
 
この時、武蔵国慈院二十九世別当であった三男の畠山小次郎重慶は、陸奥浄法寺に逃れ、還俗して重慶と名乗り浄法寺氏の祖になったということです。
 
戦国期の居城浄法寺城は東西約400メートル、南北700メートルの広大なもので、三戸・九戸・八戸と並ぶ南部勢力の有力者であったことをうかがわせる規模です。特に糠部から鹿角に通じる要衝を押さえていたことから「鹿角の大将」とみなされていたました。

秋田氏と南部勢力が比内をめぐって戦ったとき、南部方の武将として「九平五郎(九戸政実か?)外一類」に「浄法寺修理介」の名が見え、これが当時の当主修理介重安かと思われます。三戸南部晴政・信直の時代に活躍した修理もこの人物でしょうか。

慶長年間の最上出陣や和賀兵乱に、当主重安の嫡男重好はは120人を従えて出動しており、南部家臣にあっては八戸に次ぐ大身でした。和賀兵乱の際、南部利直は一時休戦にして、和賀に浄法寺重好を置き、三戸に帰ったが、重好はひそかに居館に帰って戦陣の規律を破ったため、慶長八年知行家禄屋敷を没収され、その身は蟄居となり、分流松岡家に預けられ、浄法寺氏は断絶したとつたわっています。

http://airinjuku.web.fc2.com/

shiro555.jpg



 | ホーム |  次のページ»»