浄法寺氏家臣団
- 2020/08/09
- 10:27
畠山庄司次郎重忠三男出家大夫房阿闍梨重慶、奥州二戸郡浄法寺に住し、父重忠依讒討死。両兄共殺害を憤り兵を起すの企あるより、鎌倉の命により長沼五郎宗政討手とし来り。重慶誅せらる、其男幼弱民間に潜み、後浄法寺太郎重基といふ。夫々住居して近村を従ひ一家をなせり。南部守行公に應永の頃より従ひ軍功あり。信直公御代五千石を領し、浄法寺修理重安、九戸攻に功あり。帯刀と改む。其男修理重好利直公に仕へ二千石。岩崎従...
毘沙門堂阿闍梨のこと
- 2020/08/06
- 18:35
元弘2年(1332)蝦夷の乱を契機として鎌倉幕府討幕の機運たかまり、新田義貞は武家政治の根拠地鎌倉に攻め入った。 この時の鎌倉攻めに、南部師行は甲斐の本領を動かなかったが、長兄の時長、その子行長、 師行の嗣子政長は新田軍に加わった。 時長と行長は5月7日、政長は奥州より馳せ参じ15日に新田義貞軍に加わり、北条泰家の軍と戦ってこれを破り、ついに北条氏を滅ぼした。その後、晴長と行長の親子は鎌倉の守備兵とな...
畠山重慶のこと
- 2020/08/02
- 13:09

陸奥浄法寺氏の祖は、畠山重慶(はたけやま ちょうけい)で、鎌倉時代前期の僧です。生年未詳で建保元年(1213)9月に亡くなっています。僧侶としての名は、大夫阿闍梨重慶(たいふあじゃりちょうけい)で、平姓畠山氏の一族でした。鎌倉幕府の御家人であった畠山重忠の末子です。 父重忠と兄重秀・重保は、元久2年(1205)の畠山重忠の乱で北条氏率いる幕府軍によって滅ぼされ、畠山氏の名跡は北条氏縁戚であった足利義純が継...
天台宗六所宝塔
- 2020/06/22
- 06:46

仏教により国家鎮護は、平安期の大和朝廷にとっては国家を挙げた旗印であった。9世紀半ばには、その理想を実現するために天台仏教は六か国に法華経を置く塔を建てた。 関東以北では上野国と下野国の二か所に建てられた。そして天台仏教は、その理想をさらに北日本にも実現させようとして、日本国の当時の最北端であった岩手郡よりも北の、当時は蝦夷の勢力下にあった七時雨~奥中山~軽米以北に天台寺院を建立したと思われる。...
天台寺=浄法寺
- 2020/06/18
- 22:03

【浄法寺(じょうほうじ)】 奈良時代初期の神亀年間(724-29)の創建で、古くは緑野寺とも呼ばれていました。創建は、鑑真和上第一の高弟である道忠とされています。道忠の様な高僧が上毛野に赴任した事は仏教史の疑問となっていますが、その弟子が武蔵野・下毛野出身者であることから、関東教化の朝命が考えられます。 また平安時代には、伝教大師最澄が東国教化の道場として再興したとも伝えられ、朝廷の施策寺色をうかがえます...