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記事一覧

糠部郡の分割

 南部信直が豊臣秀吉から安堵された南部内七郡は、糠部、鹿角、岩手、志和、稗貫、閉伊、和賀の各郡である。この時期の文書には、後に糠部郡から分かれる二戸、三戸、九戸、北郡は、たとえば糠部郡の内三戸というように郡名の後に地名がかかれている。 それでは、三戸郡などはどの時期に糠部郡から分離したのであろうか。 今のところ、二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡の郡名が確実に確認できる資料は、寛永11年(1634)年に徳川家光...

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南部内七郡のこと

 天正18年(1590)に南部信直は小田原に参陣し、豊臣秀吉から南部内七郡の所領安堵を受けた。これによって九戸政実の独立大名としての道が閉ざされ、天正19年(1591)の九戸一揆につながるのである。 このときに安堵された「南部内七郡」は具体的な記述が無く、どの郡をいうのか史家の間で見解が分かれているのである。その説を大きく分けると糠部郡を単独の郡と考えるか、糠部郡を四郡に分割して考える説である。 糠部単独説は...

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三戸南部信直のこと

 近世盛岡南部藩の基礎を築いた南部信直は、天正19年(1591)6月に豊臣秀吉に九戸鎮圧の援軍を要請しました。秀吉軍は8月7日に二本松、8月23日に和賀郡相去、盛岡には8月25日に到着し、ここで十三梯段の編成を汲み九戸城へ向かいます。 三戸の南部信直は、蓑ケ坂から釜沢を通り、金田一長瀬で九戸軍と一戦を交えます。堀野の竹内神社で必勝祈願を行い、現在の陣馬山に本陣を敷きます。 九戸城の落城は9月4日と言われます。落城...

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大湯氏のこと

 大湯氏は、元々は奈良氏を称し、武蔵七党の流れをくむ名族です。鹿角郡大湯村に所領がありました。 九戸決起戦における大湯の戦いは天正19年(1591)に起こりました。大湯昌次は大湯城に立て籠もり、南部信直は大光寺光愛に大湯城の攻略を命じます。 大湯郡は抵抗しますが、武運拙く敗走し九戸城に逃げ落ちます。秋田方面や津軽方面に敗走した兵士も多かったと伝わります。 大湯昌次は九戸落城後、首謀者の一味として三の迫で...

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野田氏文書のこと

 天正19年(1591)4月16日は、九戸の決起にとって重要な意味を持つ日かもしれません。九戸政実が決起してから一か月後のことであり、南部信直が宇部舘の野田政親に九戸地方の要衝小軽米地方を抑えてくれるように頼んだ手紙が残されています。この文書は南部信直の苦戦を伝えています。 野田氏が影響を持っていた小軽米は「古軽米」ともいわれ、八戸から島守を経て軽米、伊保内、宮野(福岡)、一戸に至る重要地で、九戸城の裏手...

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カシオペア歴史研究所

Author:カシオペア歴史研究所
まもなく還暦を迎えます。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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