2023-02-12
長興寺の公孫樹
一昨日、高校の同級生に会うことができました。
ほんの数分ですが、九戸政実について話せました。
4月以降の「歴史研究所」活動にも協力いただけそうです。
九戸政実の年齢、実親との関係で新たな説を検証したいと思っています。
在野の伝説を荒唐無稽と片付けてはいけません。
楽しくなりそうです。
https://airinjuku.web.fc2.com/


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2023-01-06
本居武秀のこと
国学者の本居宣長の先祖が、九戸一揆の際の蒲生氏郷の配下として従軍していたと、郷土史家の黒澤恒夫さんから聞かされたことがあった。
その話は長いこと忘れていたが、本居宣長関連のサイトにそのことが書かれていてビックリした。
天正19年(1591)、陸奥国の大名、南部信直の一族九戸政実がのが乱を起こした。直接は南部家との戦いだが、南部家のバックには秀吉がいた。その命を受けて出陣した蒲生氏郷の軍勢の中に宣長の先祖・本居武秀がいた。合戦の舞台となったのは、岩手県二戸市にある九戸城。この近くで哀れ武秀は討ち死にしたという。
宣長は奥州からの来客がある度に、九戸合戦の記録が残らないかと尋ね、探索に腐心したと云われている。晩年に宣長の下を訪れた南部藩医・安田道卓も調査を依頼され、配下の者を使って九戸あたりを調べさせ宣長にその報告をしている。結局、必死の調査にも関わらず、地元では本居武秀に関わる直接資料は見いだせ無かったようだ。
なぜそこまで調べねばならないのか。この人が実在すれば、中世の伊勢国司・北畠氏の家臣である本居家と、宣長の家系が連続することになるためである。
晩年、宣長の下を訪れた南部藩医安田道卓も調査を依頼され、配下の者を使って九戸あたりを調べさせ宣長にその報告をしている。結局、必死の調査にも関わらず、地元では本居武秀に関わる直接資料は見つからなかったようである。
黒澤恒夫氏によれば、本居宣長の先祖は長興寺付近で戦死したと言うことであったが、果たして真実はどうであろうか。
https://airinjuku.web.fc2.com/

その話は長いこと忘れていたが、本居宣長関連のサイトにそのことが書かれていてビックリした。
天正19年(1591)、陸奥国の大名、南部信直の一族九戸政実がのが乱を起こした。直接は南部家との戦いだが、南部家のバックには秀吉がいた。その命を受けて出陣した蒲生氏郷の軍勢の中に宣長の先祖・本居武秀がいた。合戦の舞台となったのは、岩手県二戸市にある九戸城。この近くで哀れ武秀は討ち死にしたという。
宣長は奥州からの来客がある度に、九戸合戦の記録が残らないかと尋ね、探索に腐心したと云われている。晩年に宣長の下を訪れた南部藩医・安田道卓も調査を依頼され、配下の者を使って九戸あたりを調べさせ宣長にその報告をしている。結局、必死の調査にも関わらず、地元では本居武秀に関わる直接資料は見いだせ無かったようだ。
なぜそこまで調べねばならないのか。この人が実在すれば、中世の伊勢国司・北畠氏の家臣である本居家と、宣長の家系が連続することになるためである。
晩年、宣長の下を訪れた南部藩医安田道卓も調査を依頼され、配下の者を使って九戸あたりを調べさせ宣長にその報告をしている。結局、必死の調査にも関わらず、地元では本居武秀に関わる直接資料は見つからなかったようである。
黒澤恒夫氏によれば、本居宣長の先祖は長興寺付近で戦死したと言うことであったが、果たして真実はどうであろうか。
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2022-12-11
九戸城関係資料
約30年前に出版された資料が出てきました。
なんとなく読んで、詳細は後回しにしていたものです。
とても興味深い資料が掲載されていました。
それにしても、同じ日本語なのに古文書を読めません。
これから勉強を始めます。
https://airinjuku.web.fc2.com/
![DSC_0079[1]](https://blog-imgs-158.fc2.com/a/i/r/airinjuku/20221211085536558.jpg)

なんとなく読んで、詳細は後回しにしていたものです。
とても興味深い資料が掲載されていました。
それにしても、同じ日本語なのに古文書を読めません。
これから勉強を始めます。
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2022-07-28
九戸実親は政実の実子?
会輔社の重鎮であった岩舘武敏が著した「九戸戦史」を入手しました。
![DSC_0047[1]](https://blog-imgs-147.fc2.com/a/i/r/airinjuku/202207281009064e3.jpg)
以前から読みたかったのですが、漢文調で読めません。
旧字体もあって自分の学のなさに愕然としています。
![DSC_0048[1]](https://blog-imgs-147.fc2.com/a/i/r/airinjuku/20220728102451c87.jpg)
何となく読み進めているうちに九戸氏の家系図が目に留まります。
政実の実弟とされていた実親が、政実の子供と読める家系図です。
亀千代は実親の弟としか読めません。
謎が深まりました。
![DSC_0049[1]](https://blog-imgs-147.fc2.com/a/i/r/airinjuku/20220728102528bf3.jpg)
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以前から読みたかったのですが、漢文調で読めません。
旧字体もあって自分の学のなさに愕然としています。
![DSC_0048[1]](https://blog-imgs-147.fc2.com/a/i/r/airinjuku/20220728102451c87.jpg)
何となく読み進めているうちに九戸氏の家系図が目に留まります。
政実の実弟とされていた実親が、政実の子供と読める家系図です。
亀千代は実親の弟としか読めません。
謎が深まりました。
![DSC_0049[1]](https://blog-imgs-147.fc2.com/a/i/r/airinjuku/20220728102528bf3.jpg)
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2020-11-07
糠部郡の分割
南部信直が豊臣秀吉から安堵された南部内七郡は、糠部、鹿角、岩手、志和、稗貫、閉伊、和賀の各郡である。この時期の文書には、後に糠部郡から分かれる二戸、三戸、九戸、北郡は、たとえば糠部郡の内三戸というように郡名の後に地名がかかれている。
それでは、三戸郡などはどの時期に糠部郡から分離したのであろうか。
今のところ、二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡の郡名が確実に確認できる資料は、寛永11年(1634)年に徳川家光から南部家に交付された物である。
それによると、六戸、七戸、田名部までを北郡、一戸、金田市、福岡、浄法寺までを二戸郡、三戸、五戸、八戸、種一までを三戸郡、九戸、江刈、葛巻、久慈、野田までを九戸郡と書かれている。
また、南部領内の各郡については糠部郡から分かれた二戸、三戸、九戸、北郡については具体的な範囲が書かれているのに対して、鹿角郡、岩手郡、稗貫郡、和賀郡は具体的な範囲は書かれていない。このことは、この時期に糠部郡が四郡に分かれたことを示していると思われる。なお、閉伊郡は閉伊、遠野までと具体的な地名が書かれているが、おそらくは八戸南部氏の遠野移転に関連しての事と考えられる。
本来は馬淵川流域に勢力を持っていた南部氏が、その本拠を盛岡に移したことにより、広大な糠部郡を統治するために分割する必要があったのであろう。
https://airinjuku.jp/

それでは、三戸郡などはどの時期に糠部郡から分離したのであろうか。
今のところ、二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡の郡名が確実に確認できる資料は、寛永11年(1634)年に徳川家光から南部家に交付された物である。
それによると、六戸、七戸、田名部までを北郡、一戸、金田市、福岡、浄法寺までを二戸郡、三戸、五戸、八戸、種一までを三戸郡、九戸、江刈、葛巻、久慈、野田までを九戸郡と書かれている。
また、南部領内の各郡については糠部郡から分かれた二戸、三戸、九戸、北郡については具体的な範囲が書かれているのに対して、鹿角郡、岩手郡、稗貫郡、和賀郡は具体的な範囲は書かれていない。このことは、この時期に糠部郡が四郡に分かれたことを示していると思われる。なお、閉伊郡は閉伊、遠野までと具体的な地名が書かれているが、おそらくは八戸南部氏の遠野移転に関連しての事と考えられる。
本来は馬淵川流域に勢力を持っていた南部氏が、その本拠を盛岡に移したことにより、広大な糠部郡を統治するために分割する必要があったのであろう。
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