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三戸南部信直のこと

 近世盛岡南部藩の基礎を築いた南部信直は、天正19年(1591)6月に豊臣秀吉に九戸鎮圧の援軍を要請しました。秀吉軍は8月7日に二本松、8月23日に和賀郡相去、盛岡には8月25日に到着し、ここで十三梯段の編成を汲み九戸城へ向かいます。

 三戸の南部信直は、蓑ケ坂から釜沢を通り、金田一長瀬で九戸軍と一戦を交えます。堀野の竹内神社で必勝祈願を行い、現在の陣馬山に本陣を敷きます。

 九戸城の落城は9月4日と言われます。落城の際は、信直軍が上方軍に先んじて突入しました。その突入に関して一つの伝説が残っています。

 九戸政実が浅野長政に欺かれて降参したと知った七戸家国は、政実を奪い返そうとしたが果たせず、蒲生氏郷を襲撃したが失敗しました。ここでいったん九戸城に引き返し、陣馬山の信直に向かって「我らの城はまさに落ちようとしている。この際は、南部の兵を集めて城を取れ。他の軍に先を譲るな。」と大声で叫んだといいます。

 信直は自ら兵を率いて城中に入り、旗を高く掲げて一番乗りを果たします。南部の諸将は家国の義に感涙しました。落城後に信直は、先代晴継公が疱瘡で亡くなったことを悼み、疱瘡神社を建立し三戸に引き揚げたと言われています。

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大湯氏のこと

 大湯氏は、元々は奈良氏を称し、武蔵七党の流れをくむ名族です。鹿角郡大湯村に所領がありました。

 九戸決起戦における大湯の戦いは天正19年(1591)に起こりました。大湯昌次は大湯城に立て籠もり、南部信直は大光寺光愛に大湯城の攻略を命じます。

 大湯郡は抵抗しますが、武運拙く敗走し九戸城に逃げ落ちます。秋田方面や津軽方面に敗走した兵士も多かったと伝わります。

 大湯昌次は九戸落城後、首謀者の一味として三の迫で処刑されました。弟の大湯次郎左右衛門、大湯彦左衛門は津軽に落ち延び、津軽家に奉公します。後年、大湯村に戻ったとも言われます。

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野田氏文書のこと

 天正19年(1591)4月16日は、九戸の決起にとって重要な意味を持つ日かもしれません。九戸政実が決起してから一か月後のことであり、南部信直が宇部舘の野田政親に九戸地方の要衝小軽米地方を抑えてくれるように頼んだ手紙が残されています。この文書は南部信直の苦戦を伝えています。

 野田氏が影響を持っていた小軽米は「古軽米」ともいわれ、八戸から島守を経て軽米、伊保内、宮野(福岡)、一戸に至る重要地で、九戸城の裏手に繋がる場所でした。
信直は何度も野田氏に手紙を宛て、「かるまい番又々其方頼人候」と懇切に依頼しています。この種の手紙は五通ほど残されています。

 このころの信直は苦境に立たされていました。一戸月舘に陣を取り、占拠された一戸城の奪還を試みたり、金田一の四戸城では九戸方と激戦を続けました。このころは九戸方が優勢だったのです。
そこで信直は、長子利直を浅野長政に付添わせて、豊臣秀吉に援軍を乞うため金沢の前田利家へ向かわせたのでした。
利直一行は雫石から仙北郡に抜け、横手、新庄を通り最上川を下りました。酒田から船で村上に着いて、新潟、信濃から木曽を経て前田利家に謁見します。そして九戸の抵抗で苦戦していることを伝え、秀吉の援軍を要請したのです。

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軽米兵右衛門のこと

 八戸藩の重要な地であった軽米は、陸奥国糠部郡軽米村にあり戦国末期には軽米氏の本拠地でした。本丸、二の丸に濠をめぐらす東西200m、南北120mの平城で、軽米町中心部を見下ろす丘陵地帯にあります。

 城は現在の軽米町役場の敷地を含む一帯で、役場のある東の廓が二ノ丸、役場の駐車場となっている場所が西の廓が本丸と伝えられ、本丸と二ノ丸の間にはかつて堀があったといわれます。築城時期は不明で、藩政期には代官所が置かれて発展しました。

 交通の要衝を拠点とした軽米氏については、記録がほとんど残っていないので、詳細は不明です。軽米町史によれば、中世後半にその名が古文書に登場し、奥南旧指録には1591(天正19)年九戸政実とともに城に立て籠った軽米兵右衛門の名前が見られます。

 その後、軽米城には北信愛の三男、九兵衛愛継が2000石の知行で居城します。1665(寛文5)年八戸藩の創立に伴い北氏は鹿角大湯に転封しました。藩政期には軽米通を治める通代官所が置かれ明治に至ります。

 おそらく中世軽米に勢力を持ったであろう軽米氏の資料がほとんど残っていないのが不思議です。九戸政実の姻戚だったと想像しています。

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松尾ジンギスカン

島守舘のこと

 九戸の決起で九戸側に参戦した島守安芸と島守主膳親子は、四戸氏の系統で島守1000石を領し、島守舘は櫛引城の前線基地であった。

島守親子は九戸城に籠城し、島守舘を守っていた四戸太郎左衛門を八戸政栄はは襲撃した。島守勢は敗れ、残党は九戸城を目指して敗走した。観音林まで来たところで九戸城が落城したことを知って割腹したといわれる。観音林の一里塚付近にある宝篋印塔はそのために建てられたともいわれる。

島守は盆地であり、新井田川が流れ虚空蔵様で知られる場所である。虚空蔵様は高松寺の仏様で、明治の廃仏毀釈では、竜興神社として鳥居が建てられて難を逃れた。この地帯が九戸決起の際の古戦場と言われ、島守勢と八戸勢が対決した場所と言われる。

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カシオペア歴史研究所

Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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