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ラヂウム実験

 明治43年、田中舘愛橘博士のお土産にいたラヂウムで実験していただいたことが記録されている。先生は前年に紀行会議や物理会議で訪欧したが、出発前に福岡中学を訪れた。青木校長はその時に「生徒の教材にラヂウムが欲しいとお願いしておいた。

 キューリー夫人が発見してから間のないころであり、世界中で何個も標本は無い時代の事であったが、愛橘先生は夫人にお願いして三個入手できた。帰国途中でウラジオストックで講演し、ラヂウムを宝石に照射し驚嘆させたことが伝わっている。

 帰国してまず京都大学に譲り、次いで東京大学、そして最後の一個を福岡中学に寄贈した。実験は講堂で行われ、木片、アルミ、鉛板などに照射した。生徒たちは、木片やアルミは通過するが鉛は通過しないことを身をもって知ったのであった。

 福岡中学は、京都大学、東京大学に次いで国内三番目のラヂウム所有者となり、実験が行われたのも三番目という栄誉であった。ラヂウム温泉が各地にできるはるか以前の事であった。

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酒茶剽

 明治39年2月のある日、第一回の卒業試験が行われるので、卒業予定者たちが中学最後の試験を受けるために、寄宿先で一生懸命勉強していた。

 その頃は、中学校開校を数年待って入学するものあり、中には妻帯するものもあって、公然と酒を飲む生徒も珍しくなかった。この時も深夜大いに盛り上がり、鉢巻をして勉強していたが、そのうちに尿意を催した一人が、二階の窓から放尿をしてしまった。

 運悪くその場に校長夫人が通りかかり、飛沫が夫人の袖にはねかかった。すぐに校長から舎監の小保内謙吾先生に取り調べが命ぜられた。

 小保内先生は生徒を自宅に呼びつけ、生徒を火とにらみし、「君たちはお茶を飲んだだろう。二階からお茶をこぼしただろう。それに相違ない。」と怒鳴りつけた。どうなることかと薄氷を踏む思いの一同は、ほっとして寄宿舎に帰った。

 酒を飲んだ上に、校長夫人に飛沫をかけたとなれば退学も免れない。酒豪の校長と小保内先生の機転であった。校長夫人にはとんだ災難であったが、校長の寛容により生徒たちは無事に試験を通過し、記念すべき第一回の卒業生として社会に巣立ったのである。

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感想(2件)


証言 19年ぶりの甲子園

「火の玉千本ノックは私の財産」 欠端光則

 僕の野球人生を語る上で、高校時代は欠かすことのできないものだ。市立福岡中学に在籍していた頃から、福岡高校の野球部が憧れだった。県内でも甲子園をねらえる強いチームというのもそうだが、なにより斉藤諒監督の指導がすごく評判で、福岡高校に行けば間違いないという声が多かった。

 運が良かったかもしれないが、僕は一年生から遊撃手兼投手としてレギュラーに抜擢された。しかし、投手でありながら野手というポジションから練習メニューは両方やらなければならないため激しい練習が毎日待っていた。

 その中でも思い出として強く残っているのが、年2~3回あった合宿での、かの有名な「千本ノック」であった。一人ずつ一時間半から二時間の個人ノックを受けた。泥まみれになって白球を追いかけ、動かなくなるまで「火の玉ノック」は続いた。動けなくなるとようやくノックは終わり、斎藤監督は言葉少なげに去っていったのが印象的だった。

当時は嫌でしょうがない練習だったが、基本を徹底的に鍛えられたことが後に僕の財産になった。プロ野球に入団して周りを見渡せば、僕は他の選手より基本がきっちりとできていたのだ。厳しい練習に今では感謝している。

 取り返せない失敗もあった。忘れもしない昭和55年八月九日、甲子園大会二日目第一試合の大分商業戦。念願の甲子園出場は果たしたが「オレが投げれば勝てる」といううぬぼれが原因で本調子がでないままに初戦敗退を喫した。前年の夏、岩手県大会の決勝戦で教訓を得たはずだ。練習試合では22-0で勝利した久慈高校相手に、決勝戦では1-3でまさかの敗退。悔しい思いをしながら、どんな相手でも気を引き締めて臨むことが必要だと学んだはずだった。それでも甲子園で同じ過ちを繰り返した自分が情けない。

 入学前から、岩手県大会の決勝で敗れて甲子園への切符を逃していた斎藤監督。その監督を甲子園に連れて行くのが僕らの目標だった。

 それだけに、昭和55年の夏19年ぶりに甲子園切符を手にして福岡の街をパレードしたときは感慨深いものがあった。

 北福岡駅から国道4号線(旧国道)を金田一温泉までみんなでパレードをしたのだが、斎藤監督の嬉しそうな表情と、19年間の鬱憤を晴らすかのように熱狂する地元の人を見て、すごく胸が熱くなったのを今でも覚えている。

 福岡高校の野球部で、野球の基本と一つのプレイの大切さを学び、チームメイトから支えられたからこそ僕はプロ野球に入団し投げることができたと思う。福岡高校は、まさに僕の原点となる場所だった。

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陸奥福岡への野球伝来

 福岡(二戸地方)に野球を伝えたのは誰でいつ頃のことであろうか。
 結論から言うと記録は発見されていないが、当時の人々の書き残した資料などからある程度は想像ができる。

 まずは、後年福岡町長を務めた川島一郎の回想録に「明治21年に小学校に入学した。そのころにはベースボールが盛んに行われていた」との記述がみられる。また、福岡町時代に歴史民俗資料館で古老から聞き取った記録に「明治18年頃に行われた」とある。

 これらの資料から明治20年頃には既に福岡の地で野球が行われていたことがわかる。盛岡への伝来(明治17年盛岡中学で行われた?)とほとんど同じである。

 明治7年頃、東京外国語学校(後東京英語学校で東京大学に発展)の生徒で、後に札幌農学校に進んだ大島正健の回想録に「上級学校である開成学校で行っている球技を同級生で見学した。羨ましく思い、手製のバットやボールを作って球技を真似てみた」とある。大島の同級生に田中舘愛橘がいた。大島の著書にも愛橘は登場する。二戸地方の人間で「ベースボール」と呼ばれる球技を最初に目撃したのは田中舘愛橘だったことは間違いない。

 日本体育協会が発行した「スポーツ100年」でも、明治初期に開成学校のアメリカ人教師・ウイルソンから愛橘が直接野球の指導を受けたことが書かれている。この明治7年頃は、会輔社の小保内喜代太が東京に勉学にでた年である。当然、旧知の間柄である愛橘とも会っていたはずである。愛橘日記にも喜代太ことが書かれている。

  ウイルソンの専門が数学(洋算)であった。喜代太の専門も洋算、物理、化学である。当時の外国人教師は、新聞社などの後援で公開授業(講演)を行っていたことなどを考えると、小保内喜代太と何らかの接点があったとしても不思議でない。現在よりも遙かにおおらかな時代である。想像でしかないが、喜代太も野球にふれたことであろう。

 喜代太は明治11年に帰郷し会輔社の教師に就任した。おそらくベースボールは新しい武芸とし僻村の人たちに受け入れられた。まさしく福岡に野球を伝えたのは、小保内喜代太を中心とした東京や盛岡などで学んだ明治10年代の会輔社関連の人物と思われる。

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最後のストライキ計画?

 さて、母校応援団や野球部の歴史について調べるきっかけになった事件について書きたい。たぶん同級生は記憶にあるかと思うが、昭和55年の春季高校野球(選抜でない)岩手県大会も見事に優勝し、東北大会も決勝まで駒を進めた。決勝戦は岩手県営球場で東北高校と対戦することになった。ここで思わぬハプニングが起こった。本来であれば決勝戦は日曜日に行われる予定が、雨のために一日順延し月曜日の決勝戦となったのだ。

 決勝戦当日の月曜日、この日も雨でさらに1日のびて火曜日に順延となった。しかし、この順延を知らずに県営球場に集まった生徒は約200名で、全員が善意の欠席であった。この多くの欠席者に学校長はひどく怒り、火曜日に行われる決勝戦の応援に授業をさぼって行ったものは断固たる処分を下すと先生方に伝えた。先生方は、自分の受け持ちの生徒一人一人に電話をし、校長の決定を伝えるとともに、火曜日の朝から、「金田一」・「斗米」・「北福岡」の各駅で生徒を待ち伏せていた。

 生徒もその裏をかいて、一戸や三戸から乗る者、親から連れて行ってもらう者など、学校側と戦っていた。先生方も、校長の意向の通り生徒を制止する先生もあれば、「頑張ってこい」と言って見て見ぬ振りを先生などあったらしい。結局、球場に集まった者は約100名+OB/OG約40名。

 しかし、これだけでは終わらないのが当時の福高生。生徒の大半がテレビ中継のある午後1時に合わせて早退してしまった。我がクラスなど4人しか午後の授業を受けなかったらしい。結局、決勝戦当日に学校に残ったのは300名ぐらいだったようだ。(当時の全校生徒は約1100人) 試合は最終回サヨナラで敗れてしまった。3-4という接戦だった。

 次の日は緊急の職員会議が行われて、応援に行った者は3日間、早退した者は1日の停学に決定しそうになったらしい。ただし、あまりにも該当者が多すぎて最終的な決定は翌日に持ち越された。その日の放課後、応援団顧問のO先生に呼ばれた。そこにはD先生も同席していて職員会議の経過を教えてくださった。そして、D先生からは生徒の代表者として何か行動を起こしてみたらどうかと助言していただいた。

 生徒の間では処分を不服として、陣馬山に立て籠ってストライキをしそうな勢いだったが、野球部後援会の有力者が「悪いようにはしないから、形だけでも謝罪しろ。」と助言してくれた。

 次の日の朝、校長の到着を待ち話し合いがもたれた。「今回の応援に参加した者は、私の指示によるものなので彼らを処分する前に先ずは私から処分してください」と訴えた。それから約1時間ほどの話し合いの結果、応援に行った者は職員室前で3時間の正座、早退した者は反省文ということで落ち着いた。ただし、私には別の宿題が渡された 。

・夏休み中に7日間ほどの奉仕活動(甲子園に行ったために免除)

・応援団の歴史に関する調査

・野球部の歴史に関する調査

・地区民の選手や審判に対するヤジの是正

 この日以来、毎日のように校長から呼び出しがあった。「応援団長、職員室、中村(当時の顧問)まで!」という放送がある度に生徒は笑っていたらしい。

 今から考えると何とも無謀な行動だった。おそらく水面下では校長と後援会で解決策が話し合われていたはずだ。そのことを知ったのは、卒業してから20年後の事だった。

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世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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