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明治9年7月の謎

 明治9年6月に、陸奥福岡にやってきた羊はどこから連れてきたのかと疑問が湧きました。明治生まれの諸先輩から聞いた、下総御料牧場を手掛かりに調べ始めました。

 成田市の広報誌によれば、アップ・ジョーンズ(D. W. Ap. Jones)という人物が、御料牧場の開設に大きく関わっいることがわかりました。アップ・ジョーンズは、1830年、ア メリカで生まれ、明治初期に来日したといわれています。明治6(1873)年9月、自費で関東地方を回り、牧羊業に適当 な土や気候を調査し、大隈重信内務卿に綿羊事業についての意見書などを提出しました。
当時は外国人に営利事業は認められていませんでしたが、勧業権頭の河瀬秀治から「政府の雇い人とし、 政府の事業とすれば支障がない」との答申がありました。  

 そこでジョーンズは、明治8年に勧業寮の御雇外国人として採用されます。内務省勧業寮には牧羊開業取調掛が新設され、長官に岩山敬義 、技術面での最高責任者にジョーンズが任命されたのです。  
牧羊場開設の準備はジョーンズを中心として進められ、用地 選定のため、千葉・茨城・栃木県下の原野が実地調査されます。
明治8年11月、全ての用地の買収を待たず下総牧羊場が開場し、初代場長に岩山敬義が就任します。ジョーンズは東京から七栄村(現在の富里市七栄)に移ります。
 
 開場後、ジョーンズは、綿羊・馬などを輸入するため清国などに赴むき、明治9年11月には清国から、 翌年にはアメリカ・清国・オーストラリアから綿羊を輸入することに成功しました。 また、牧羊場は明治9年以降、各府県から1人ずつ生徒を募り、 牧羊方法、牛馬豚管理方法、西欧農具用法などの講義と実習を行い、多くの卒業生を全国各地へ送ります。

 蛇沼政恒も、明治11年には下総御料牧場から羊を貸与されています。明治14年には下総御料牧場で牧羊の勉強もしています。

 しかし、成田市の広報誌を素直に読めば、下総御料牧場で羊の飼育を始めたのは、明治9年11月からということになります。そうすると、明治9年6月に陸奥福岡にやってきた羊はどこからやってきたのかという新しい疑問が出てくるのです。

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明治9年6月には陸奥福岡に羊がやってきました

 明治9年6月には陸奥福岡に羊がやってきました。今から40年ほど前の昭和54年頃、この件について調べたことがありました。陸奥福岡にやってきた羊はどこからやってきたのかとい疑問を、明治生まれの大先輩に聞いたことがあります。
その際には、会輔社にやってきた羊は下総御料牧場からやってきたと教わりました。長らくそのことに疑問も持たず過ごしましたが、ちょっとしたことがきっかけで日本における牧羊を調べてみました。

 1875年(明治8年) 大久保利通内務卿が牧羊場設置の上奏を上院に行います。大久保卿は取香牧を視察し、その場所を牧羊場並びに種畜場の用地を決定したといわれます。9月 には下総牧羊場、取香種畜場開設し、初代場長に岩山敬義を任命しました。しました
 同時に米国人アプジョーンズを主任技師として、レーサムを牧羊師として採用します。東北地方より和牛を購入し、牛耕にて開墾開始し、十倉村両国に牧羊場仮事務所を設置したといわれています。

 そのころに全国より牧羊生徒57名が入場し牧羊を学び、11月には清国から、翌年には米国や豪州から羊が到着といわれます。
蛇沼政恒も明治10年には、この下総御料牧場から羊の借用をしたことは記録に残っておるようです。しかし陸奥福岡に羊が到着したのは、明治9年6月です。そうすると明治の先達から聞いていた下総御料牧場よりも早く、羊を陸奥福岡で飼育したことになります。

 その謎を紐解きたくて、迷路に迷い込んでしまいました。

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蛇沼政恒年表

蛇沼政恒年表

・ 嘉永2年(1849)4月29日 
  陸奥国三戸郡猿部村の蛇沼舘に蛇沼載氏(のりうじ)と母みゑの長男として誕生。幼名は健次。
  母は会輔社を作った小保内孫陸の長女で小保内定身の姉。

・ 安政2年(1855) 
  三戸町の一戸武治衛門から槍術を学ぶ。(6歳)

・ 安政3年(1856) 
  南部藩主の南部利剛公に、師範の子・一戸才太とともに槍術を披露し、金子を賜う。(7歳)

・ 安政4年(1857) 
  陸奥福岡の祖父小保内孫陸宅に寄宿し、長州藩の小倉健作や麻生藩の吉田房五郎に師事する。(8歳)

・ 文久2年(1862) 
  盛岡の新渡戸傳宅に身を寄せ、開墾について学ぶ。3月に会輔社同盟に参加する。(13歳)

・ 文久3年(1863) 
  秋に津軽藩主の襲撃を企てる。(14歳)

・ 慶応元年(1865) 
  先代藩主南部利恭公に従い9月10日に盛岡を発ち10月4日に江戸に到着。古川美濃守、小田代熊太郎につき政治を研究する。(16歳)

・ 慶応2年(1866) 
  盛岡の作人館修文所に入学し江幡五郎に国文学漢文を学ぶ。江幡五郎が政恒と命名し、以後は蛇沼政恒を名乗る。(17歳)

・ 明治元年(1868) 
  陸奥福岡帰り、郷学教授照井小作に漢学を学ぶ。(19歳)

・ 明治3年(1870) 
  盛岡に居住後に上京。大学博士芳野金陵の塾で漢学を学ぶ。(21歳)

・ 明治4年(1871) 
  7月3日慶應義塾に入学。入学する際の名は蛇沼健次。事情で慶應義塾を辞め帰郷。(22歳)

・ 明治5年(1872) 
  内務卿大久保利通の「将来、日本人は洋服を着用することになるだろう。日本においても牧羊を奨励すべきである。」との言葉を知る。(23歳)

・ 明治6年(1873) 
  夏に三戸の財産一切を処分し、一家を挙げて上京し東京代々木に居を構える。(24歳)

・ 明治8年(1875) 
  旧藩主を通じて10月に、勧業寮試験場研究生となり牧羊論を学ぶ。
  会輔社では勧業部門の具体的な事業として牧羊と取り組むことを決定する。(26歳)

・ 明治9年(1876年) 
  緬羊25頭を購入(借用?)し15頭を引き連れて5月23日に東京を出発。牧羊師に松平錦水を雇い、牧夫4名と共に陸路を陸奥福岡に向かう。
  6月15日に会輔社に到着し、小保内家の敷地で飼育を始める。7月に「上野牧場創立規約」をつくり賛同者を募る。
  7月6日に青森県令に資金拝借申請書を会輔社員の連名で提出。
  7月9日木戸孝允が会輔社を訪問。7月10日明治天皇の巡幸に際し、緬羊と羊の毛織りを展覧に供した。(27歳)

・ 明治11年(1877)
  上斗米の上野官有地に牧場を開設。(28歳)

・ 明治11年(1878) 
  下総御料牧場から羊30頭が貸与され陸送する。牧羊資金拝借申請が岩手県より3月に許可される。
  4月に会輔社による「上野牧羊場」が設立される。11月島県令一行が視察に訪れる。(29歳)

・ 明治12年(1879) 
  住宅を新築。秋に狼害に遭う。(30歳)

・ 明治14年(1881) 
  1月に狼害で羊が全滅する。会輔社は牧羊から手を引き蛇沼の個人経営となる。
  2月に夏井庄六、三ケ森長永を伴い、下総国種畜牧場で牧夫として牧羊を学ぶ。
  5月に羊500頭、原野約3000町歩の借用願いを提出。牧場開設計画は上斗米上野、浄法寺村梅ノ木、小繋村西田子であった。
  8月23日明治天皇の東北巡幸に際して謁見する。(32歳)

・ 明治15年(1882) 
  牧夫として三ケ森長永、雇地保蔵を日給20銭で雇う。2月に再度牧羊を勉強するために三里塚農政局種畜場で働く。
  10月に上野の官有地使用と羊200頭の拝借許可が下る。(33歳)

・ 明治16年(1883) 
  春に子羊130頭誕生。下総取香種畜場から緬羊200頭を借用する。
  三ケ森長永、雇地保蔵と三人で42に日間かけて上斗米上野に到着。
  この際に牧羊犬2頭を連れて帰る。7月雇地の管理する緬羊200頭が農務局内命により臨時滞留となる。
  俗にいう梅ノ木事件が起こる。(34歳)

・ 明治17年(1884) 
  開拓希望者を募り42町歩を開墾する。開墾のトラブル発生し開墾した土地20町歩を手放す。
  連日の雨降りで緬羊の死が相次ぐ。(35歳)

・ 明治18年(1885) 
  8月に農務局長岩山敬義が視察に訪れる。
  11月岩手県令磐井精一宛てに緬羊90頭の返上願を出す。(36歳)

・ 明治19年(1886) 
  春から天候に恵まれ緬羊も元気を取り戻す。
  4月10月に農務局岩山敬義が視察に訪れ、返上願は受理するが引き続き緬羊を続けることを許可する。(37歳)

・ 明治20年(1887) 
  住宅が全焼する。牧舎新築。(38歳)

・ 明治21年(1888) 
  二戸郡長新渡戸宗助「牧羊に関する開申書。
  工藤与八等10名と「互換協定諸」を結ぶ。(39歳)

・ 明治22年(1889) 
  リンゴの植樹。(40歳)

・ 明治23年(1890) 
  1月火災で全焼。4月開墾の借地願が許可される。
  9月住宅新築、牧舎再建。(41歳)

・ 明治26年(1893) 
  前田正名農商次官が牧羊場を見学し一週間滞在する。(44歳)

・ 明治28年(1895) 
  第5回内国勧業博覧会に「上野牧羊場の来歴書」「牧羊論」「開拓方法書」を出展。
  有功三等賞を受賞。(46歳)

・ 明治29年(1896) 
  旧南部藩主より家系の証明書が発行される。
  旧藩時ニアリテ一般ノ藩士ト異ナル特別ノ取扱ヲ為シ来タル家筋ニ相違ナキ事ヲ証明候也」(47歳)

・ 明治30年(1897) 
  二戸地区に中等教育の学校を作ることになり、産業立国の立場から農学校誘致を主張する。
  実弟の小保内兼吾は人材育成の面から中学校誘致を主張する。(48歳)

・ 明治34年(1901) 
  県立福岡中学校が4月28日開校。小岩井農場で牧羊を始める。(52歳)

・ 明治37年(1904) 
  秋に福岡より八幡宮を遷座。9月24日福岡中学校遠足で蛇沼牧場を訪れる。(55歳)

・ 明治38年(1905) 
  日露戦争に従軍する南部利祥中尉(南部家42代当主)に羊肉の味噌漬けを送る。(56歳)

・ 明治42年(1909) 
  用材の植林を行う。(60歳)

・ 明治45年(1912) 
  アメリカスズカケノキを北海道より移植。(62歳)

・ 大正元年(1912) 
  借用地の330町歩が払い下げとなる。(62歳)

・ 大正3年(1914) 
  岩手県知事、開墾状況視察のため来場。(65歳)

・ 大正8年(1919) 
  耕地整理申請。(71歳)

・ 大正9年(1920) 耕地整理施行許可が下りて即時実行。(72歳)

・ 大正10年(1921) 水難により死去。(72歳)

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二戸ジンギスカン物語 4

 明治14年に再度明治天皇の巡行があった。8月23日一戸からの御発輦だったが、浪打峠の御野立所、陳列所の整備、陳列品の収集などは会輔社員の手によってなされた。陳列品は郷土の化石類、農産物、麻服、稗飯、大麦濁酒などである。

 三葉松が描かれた御菓子を献上したところ、その松樹をご覧になりたいとの御内意が侍従より伝えられたので、末の松山から三枝を選び、小保内定身、下斗米簾八、国分閑吉、菅治平の四人が、三戸で御休息の陛下に献上した。この行動に対して天皇は会輔社にたいして金五十円を賜った。

 この時の大隈重信は、会輔社の事業に理解を示し産業振興のために金三万円を貸すことを申し出たが、定身はこれを辞退したといわれる。

 当初は会輔社の小保内定身宅で始められた緬羊事業は、後年は斗米上野を開墾し蛇沼牧場に移った。移住当初の上野蛇沼牧場は、狼が出没し被害が大きかった。緬羊の初生児はなかなか育たないので、自分の寝床に抱いて寝た。その苦労が実って最盛期には飼育数は300頭を超えたのであった。

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二戸ジンギスカン物語 3

陸奥福岡に羊がやってきたのは明治9年の6月でした。

その後も、苦労の連続でした。

・・・・・・・・・・

 明治天皇が東北地方を御巡幸になられたのは明治9年のことであった。一戸のお泊りになったのが7月9日で、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、大隈重信など総勢250名ほどの大行列であった。行在所は一戸村の金子茂八郎宅であった。

 福岡の会輔社では、陛下の御通輦の際には浪打峠の御野立所に陳列して地方の特産品や、住民の衣服食物を展覧に供することに決した。

 7月9日夜に小保内定身は、一戸村の明治天皇一行を訪ね、御用係の近藤芳樹に会った。定身はかつて近藤芳樹から学んだ仲であった。その際に木戸孝允に面会できた。その場で翌朝、木戸が会輔社を訪ねることが決まった。

 7月10日、木戸孝允、近藤芳樹、岸田吟香が定身の自宅を訪問した。三名とも定身とは旧知の間柄であり、木戸は明治政府に不満を抱くものがあれば、これを聞いて正論あれば、時によっては新政府に起用するとの考えから、時々このような行動に出ることがあった。

 定身は長州藩士の小倉健作の書いた鶴園梅花序や、九戸古城懐古詩などを見せたところ、木戸は「生涯の友に逢うが如し」と言って喜んだ。壁に掛けてあった西郷隆盛の書を見つけて七言絶句を書いたとも言われる。その書は南部藩勤皇派の東次郎から譲られたものであった。

 木戸孝允が会輔社を訪ねた理由は緬羊事業に興味があったからだ。陛下に羊肉を献上しようというので、前日に定身と蛇沼正恒は羊を率いて一戸まで行き手続きをしたが、責任者は料理の道具を持たないのと手続きの不備を理由に献上できなかった。しかし木戸はこのことを喜び、緬羊飼育は先見の明があるとして定身宅を訪問したものであった。

 羊肉の献上はならなかったが、福岡の御休所で緬羊を展覧させることが急遽決まり、県知事に達せられた。県知事は突然のことに驚いて、さっそく定身宅を訪ね準備をしたところ、その場に木戸孝允の姿を見つけて平伏したといわれる。

 木戸を迎えた定身は、浄法寺椀に稗飯を盛り、ゴボウとニシンを身にした「コクソ煮」でもてなしたが、稗飯に冷水をかけて最後の一粒まで食べた木戸の態度に流石苦労人だと驚いた。

 7月10日7時15分に一戸宿を御発輦、8時過ぎに浪打峠に御着、福岡宿の村井治兵衛邸には10時の到着であった。ここで定身の母喜恵の織った羊毛織物、会輔社で飼育していた緬羊一頭をご覧に入れた。

 この日の会輔社員は、松平錦水を先頭に緬羊を率いていて御休所で待機した。この日の陛下の機嫌は美しく緬羊をご覧になった。やがて緬羊事業の事業の責任者である松平錦水と蛇沼正恒に対して、「牧羊は国家的事業であるから益々盛大にせよ」というお言葉と、一金十円の御下賜金を賜った。

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プロフィール

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Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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