2022-11-09
遠野
岩手県全体でみると「遠野ジンギスカン」が知られています。
「ジンギスカン」というと北海道を思い浮かべる方がほとんですが、遠野でもその歴史は古く、昭和30年頃から羊肉が「ジンギスカン」という形で食されてきました。
今では、市内スーパー店頭でも、当たり前のように生の羊肉が売られており、遠野に住む人にとっては、とても身近な料理になっています。
遠野では、『焼き肉』イコール『ジンギスカン』といっても過言ではありません。
遠野ジンギスカンで一番特徴的なのは、なんといっても野外で「バケツ」を使って食べることです。
いまや羊肉とともに遠野の風物詩となっています。
二戸地方でも「味噌だれ」「味噌漬け」などをで前面に出し、二戸ジンギスカンを売り出したらいかがでしょうか?
https://airinjuku.web.fc2.com/


「ジンギスカン」というと北海道を思い浮かべる方がほとんですが、遠野でもその歴史は古く、昭和30年頃から羊肉が「ジンギスカン」という形で食されてきました。
今では、市内スーパー店頭でも、当たり前のように生の羊肉が売られており、遠野に住む人にとっては、とても身近な料理になっています。
遠野では、『焼き肉』イコール『ジンギスカン』といっても過言ではありません。
遠野ジンギスカンで一番特徴的なのは、なんといっても野外で「バケツ」を使って食べることです。
いまや羊肉とともに遠野の風物詩となっています。
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2021-09-07
南相馬の羊飼育
日本の羊飼育の先進地は二戸です。
その二戸の偉人が相馬大作。
一説には福島県の相馬地方とも縁があるといわれています。
その相馬地方で羊飼育が話題となっています。
震災で被害を受けた乳牛飼育施設を使っての飼育だそうです。
機会があればぜひ食してみたいと思います。
https://www.facebook.com/hiroyuki.kobune/


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その二戸の偉人が相馬大作。
一説には福島県の相馬地方とも縁があるといわれています。
その相馬地方で羊飼育が話題となっています。
震災で被害を受けた乳牛飼育施設を使っての飼育だそうです。
機会があればぜひ食してみたいと思います。
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2021-04-12
味噌だれジンギスカン
祖母から聞いたジンギスカンの食べ方は味噌だれでした。
基本的に、羊肉も山羊肉も同じように食べた記憶があります。
味噌だれに漬け込んだ肉を焼いたものでした。
味噌+みりん+酒+醤油+ごま油+にんにく+ネギ+ショウガ等を混ぜてタレを作ったと思います。
煮込むときも同じものを使います。
調合の割合を工夫して、祖母の味噌だれを復活したいと思います。
試食会をしますので、食べに来て下さい。
https://airinjuku.jp/

基本的に、羊肉も山羊肉も同じように食べた記憶があります。
味噌だれに漬け込んだ肉を焼いたものでした。
味噌+みりん+酒+醤油+ごま油+にんにく+ネギ+ショウガ等を混ぜてタレを作ったと思います。
煮込むときも同じものを使います。
調合の割合を工夫して、祖母の味噌だれを復活したいと思います。
試食会をしますので、食べに来て下さい。
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2021-04-08
居猿山総左衛門のこと
居猿山総左衛門は蛇沼家の先祖です。
南部家の祖・光行公が陸奥の地に赴いた行路は、陸路説、日本海説、太平洋説があるようです。その中の太平洋説によれば、甲斐の国南部荘に勢力のあった南部光行公は、平泉攻略で戦功があり、その恩賞で陸奥糠部郡を下付されました。
その新領地に赴こうとし、鎌倉の由比ガ浜を建久二年(1191)10月に出港しました。主従が70名余りで、6隻の船に分乗したと言われています。
八戸浦に着いたのが12月18日で、そのまま馬淵川を溯りました。現在の相内付近まで進んだところで日没となります。光行公は近くの観音堂に宿をとっていたところ、近くの豪族・居猿山惣左衛門がやってきた。
居猿山惣左衛門は、「私の領地に見知らぬ人がやってきた。」と思って、光行公一行を一括しようとしてやってきたが、鎌倉武士の立派な風刺に戸惑います。
そして、あり合わせの鮭の半身と濁り酒を献上しして歓待します。そのことを光行公は大いに喜び、居猿山惣左衛門を家臣に加えたのでした。
この時の出来事は、明治の代まで恒例となって、毎年正月には蛇沼家では鮭の半身と濁り酒を献上し、上座客分の付き合いをします。蛇沼家は居猿山惣左衛門の子孫です。
ある年、蛇沼家では「いまさら鮭の半身でもあるまい。」とすて一匹献上したところ、南部公は「昔の故事を忘れるとは何事か。半身に致せ。」と叱ったと言います。
明治の廃藩置県により、藩主も東京に住むことになり、南部公の身を案じた蛇沼政恒も一家を挙げて東京に移住します。そこで旧藩主の導きで牧羊を学び、日本牧羊の先駆者となったのです。
https://airinjuku.jp/

南部家の祖・光行公が陸奥の地に赴いた行路は、陸路説、日本海説、太平洋説があるようです。その中の太平洋説によれば、甲斐の国南部荘に勢力のあった南部光行公は、平泉攻略で戦功があり、その恩賞で陸奥糠部郡を下付されました。
その新領地に赴こうとし、鎌倉の由比ガ浜を建久二年(1191)10月に出港しました。主従が70名余りで、6隻の船に分乗したと言われています。
八戸浦に着いたのが12月18日で、そのまま馬淵川を溯りました。現在の相内付近まで進んだところで日没となります。光行公は近くの観音堂に宿をとっていたところ、近くの豪族・居猿山惣左衛門がやってきた。
居猿山惣左衛門は、「私の領地に見知らぬ人がやってきた。」と思って、光行公一行を一括しようとしてやってきたが、鎌倉武士の立派な風刺に戸惑います。
そして、あり合わせの鮭の半身と濁り酒を献上しして歓待します。そのことを光行公は大いに喜び、居猿山惣左衛門を家臣に加えたのでした。
この時の出来事は、明治の代まで恒例となって、毎年正月には蛇沼家では鮭の半身と濁り酒を献上し、上座客分の付き合いをします。蛇沼家は居猿山惣左衛門の子孫です。
ある年、蛇沼家では「いまさら鮭の半身でもあるまい。」とすて一匹献上したところ、南部公は「昔の故事を忘れるとは何事か。半身に致せ。」と叱ったと言います。
明治の廃藩置県により、藩主も東京に住むことになり、南部公の身を案じた蛇沼政恒も一家を挙げて東京に移住します。そこで旧藩主の導きで牧羊を学び、日本牧羊の先駆者となったのです。
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2020-06-24
明治9年7月の謎
明治9年6月に、陸奥福岡にやってきた羊はどこから連れてきたのかと疑問が湧きました。明治生まれの諸先輩から聞いた、下総御料牧場を手掛かりに調べ始めました。
成田市の広報誌によれば、アップ・ジョーンズ(D. W. Ap. Jones)という人物が、御料牧場の開設に大きく関わっいることがわかりました。アップ・ジョーンズは、1830年、ア メリカで生まれ、明治初期に来日したといわれています。明治6(1873)年9月、自費で関東地方を回り、牧羊業に適当 な土や気候を調査し、大隈重信内務卿に綿羊事業についての意見書などを提出しました。
当時は外国人に営利事業は認められていませんでしたが、勧業権頭の河瀬秀治から「政府の雇い人とし、 政府の事業とすれば支障がない」との答申がありました。
そこでジョーンズは、明治8年に勧業寮の御雇外国人として採用されます。内務省勧業寮には牧羊開業取調掛が新設され、長官に岩山敬義 、技術面での最高責任者にジョーンズが任命されたのです。
牧羊場開設の準備はジョーンズを中心として進められ、用地 選定のため、千葉・茨城・栃木県下の原野が実地調査されます。
明治8年11月、全ての用地の買収を待たず下総牧羊場が開場し、初代場長に岩山敬義が就任します。ジョーンズは東京から七栄村(現在の富里市七栄)に移ります。
開場後、ジョーンズは、綿羊・馬などを輸入するため清国などに赴むき、明治9年11月には清国から、 翌年にはアメリカ・清国・オーストラリアから綿羊を輸入することに成功しました。 また、牧羊場は明治9年以降、各府県から1人ずつ生徒を募り、 牧羊方法、牛馬豚管理方法、西欧農具用法などの講義と実習を行い、多くの卒業生を全国各地へ送ります。
蛇沼政恒も、明治11年には下総御料牧場から羊を貸与されています。明治14年には下総御料牧場で牧羊の勉強もしています。
しかし、成田市の広報誌を素直に読めば、下総御料牧場で羊の飼育を始めたのは、明治9年11月からということになります。そうすると、明治9年6月に陸奥福岡にやってきた羊はどこからやってきたのかという新しい疑問が出てくるのです。
https://airinjuku.jp/
成田市の広報誌によれば、アップ・ジョーンズ(D. W. Ap. Jones)という人物が、御料牧場の開設に大きく関わっいることがわかりました。アップ・ジョーンズは、1830年、ア メリカで生まれ、明治初期に来日したといわれています。明治6(1873)年9月、自費で関東地方を回り、牧羊業に適当 な土や気候を調査し、大隈重信内務卿に綿羊事業についての意見書などを提出しました。
当時は外国人に営利事業は認められていませんでしたが、勧業権頭の河瀬秀治から「政府の雇い人とし、 政府の事業とすれば支障がない」との答申がありました。
そこでジョーンズは、明治8年に勧業寮の御雇外国人として採用されます。内務省勧業寮には牧羊開業取調掛が新設され、長官に岩山敬義 、技術面での最高責任者にジョーンズが任命されたのです。
牧羊場開設の準備はジョーンズを中心として進められ、用地 選定のため、千葉・茨城・栃木県下の原野が実地調査されます。
明治8年11月、全ての用地の買収を待たず下総牧羊場が開場し、初代場長に岩山敬義が就任します。ジョーンズは東京から七栄村(現在の富里市七栄)に移ります。
開場後、ジョーンズは、綿羊・馬などを輸入するため清国などに赴むき、明治9年11月には清国から、 翌年にはアメリカ・清国・オーストラリアから綿羊を輸入することに成功しました。 また、牧羊場は明治9年以降、各府県から1人ずつ生徒を募り、 牧羊方法、牛馬豚管理方法、西欧農具用法などの講義と実習を行い、多くの卒業生を全国各地へ送ります。
蛇沼政恒も、明治11年には下総御料牧場から羊を貸与されています。明治14年には下総御料牧場で牧羊の勉強もしています。
しかし、成田市の広報誌を素直に読めば、下総御料牧場で羊の飼育を始めたのは、明治9年11月からということになります。そうすると、明治9年6月に陸奥福岡にやってきた羊はどこからやってきたのかという新しい疑問が出てくるのです。
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