2023-09-07
里川目村 その6
里川目村は盛岡藩領のうち、二戸郡安比川支流岡本川左岸の稲庭岳山麓に位置しています。
元禄7年から宝永4年にかけては、35石を南部家の分知家である南部主税が知行しました。
享保20年からは、それまでの浄法寺通りから福岡通りに属しています。
江戸末期の「邦内郷村志」によれば、家数16、人数84、馬68と記録されています。
馬の数が68とは驚きです。
各家で4頭ほどの馬を飼育していたことになります。
http://rekishi2683.html.xdomain.jp/

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元禄7年から宝永4年にかけては、35石を南部家の分知家である南部主税が知行しました。
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江戸末期の「邦内郷村志」によれば、家数16、人数84、馬68と記録されています。
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2023-02-06
里川目村 その5
生まれ育った里川目村。
還暦を過ぎて、その歴史を書き残したいと思うようになりました。
江戸期には各種文書にも名前が見えるようになります。
その範囲は、里川目、大志田、田子内、細田、梅ノ木、石畑の各集落がその範囲です。
江戸期の戸数は、合計で21戸ほどだったようです。
寺子屋もあったらしく、その頃の教科書のようなモノを所有しています。
古文書では、安ヶ平、山本、勝又などの名字を名乗った家があったようです。
世間的には、明治以降に庶民に名字を名乗ることが許されたと言われますが、江戸期のも多くの農民も名字を名乗っていたようです。
https://airinjuku.web.fc2.com/


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江戸期には各種文書にも名前が見えるようになります。
その範囲は、里川目、大志田、田子内、細田、梅ノ木、石畑の各集落がその範囲です。
江戸期の戸数は、合計で21戸ほどだったようです。
寺子屋もあったらしく、その頃の教科書のようなモノを所有しています。
古文書では、安ヶ平、山本、勝又などの名字を名乗った家があったようです。
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2023-01-25
里川目村 4
30年ぐらい前のメモ帳に里川目村のことが書いてありました。
出典は書かれていませんが、嘉永2年(1849)の古文書には「検断・善蔵」「宿老・宇太郎」が浄法寺町の役として書かれています。
この浄法寺町というのは、浄法寺村、里川目村、江牛村、杉沢村、大田村を総称したものです。
肝入として儀兵衛、里川目村代表は喜兵衛でした。
里川目村の石高は86石2斗9升3合でした。
ペリーがやってくる数年前のことです。
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出典は書かれていませんが、嘉永2年(1849)の古文書には「検断・善蔵」「宿老・宇太郎」が浄法寺町の役として書かれています。
この浄法寺町というのは、浄法寺村、里川目村、江牛村、杉沢村、大田村を総称したものです。
肝入として儀兵衛、里川目村代表は喜兵衛でした。
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2023-01-22
里川目村 3
里川目村の東は江牛(えろす)村、南は浄法寺村、西は杉沢村で、江戸期に書かれた正保国絵図にも書かれている村である。
正保国絵図は、正保元年(1644年)郷帳(正保郷帳)、城絵図(正保城絵図[])などと併せて、作成が命じられた。
大目付井上政重が作成責任者として事業にあたったが、完了は慶安4年(1651年)よりかなり後となった。
正保国絵図によると、里川目村の石高は45石あまりと書かれている。
当時は五公五民だったと言われ、村全体の収穫は90石程度と思われる。
東隣の江牛村は今でも地名として残り、難読地名として知られる。
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正保国絵図は、正保元年(1644年)郷帳(正保郷帳)、城絵図(正保城絵図[])などと併せて、作成が命じられた。
大目付井上政重が作成責任者として事業にあたったが、完了は慶安4年(1651年)よりかなり後となった。
正保国絵図によると、里川目村の石高は45石あまりと書かれている。
当時は五公五民だったと言われ、村全体の収穫は90石程度と思われる。
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2023-01-21
里川目村 2
藩政時代は福岡通に属していた浄法寺村は、安比川沿いに16の村から構成されていた。
各村には23の枝村があったと言われる。
享和3年(1803)に書かれた「長嶺将石仮名帳」によれば、本村が里川目村で、枝村として細田、田子内、梅ノ木と記載されている。
明治2年(1869)には黒羽藩の取締となり、浄法寺の肝入兼検断三九郎、宿老忠助、老名万九郎がこれまで通り村役人として指名された。
明治2年に指名された三九郎は、庄蔵とともに里川目村の庄屋を務めた。
この頃の村総代が安ヶ平桂平であった。
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各村には23の枝村があったと言われる。
享和3年(1803)に書かれた「長嶺将石仮名帳」によれば、本村が里川目村で、枝村として細田、田子内、梅ノ木と記載されている。
明治2年(1869)には黒羽藩の取締となり、浄法寺の肝入兼検断三九郎、宿老忠助、老名万九郎がこれまで通り村役人として指名された。
明治2年に指名された三九郎は、庄蔵とともに里川目村の庄屋を務めた。
この頃の村総代が安ヶ平桂平であった。
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