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Airinjuku

Author:Airinjuku
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。


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桂泉

リハビリを兼ねて往復8キロぐらい歩きました。

喉が渇いたので桂泉で喉を潤しました。

江戸時代の旅人もここに立ち寄りました。

それほど高い場所でもないのに、水が枯れることは無いようです。

そのこと自体が霊的な場所だったのでしょう。

天台寺境内の桂は、推定2000年だそうです。

https://airinjuku.jp/

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秋の気配

今朝は体調も良かったので往復8キロぐらいを歩きました。

気温も涼しく、散歩には良い季節です。

風には秋に気配が漂っています。

歌人であれば、ここで一首詠むところでしょうが、凡人にはすぐには浮かんできません。

「流れ雲 涼しき風に 秋近し 稲穂垂れるに 秋祭り」

字足らずでした。

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萩の月

一関の知り合いがお土産に持ってきてくれました。

漆芸を勉強中で、9月7日まで滞在するようです。

磐井地方でも大東町や平泉の漆芸は古くから知られています。

どのように学んでいかれるか楽しみです。

お土産にいただいた「萩の月」は、いつ食べても美味しいです。

https://airinjuku.jp/

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ひょうたん

ひょうたんに漆を塗ってみました。

即席で塗ったので・・・・ギャグになってしまいそうです。

でも、世の中には「ひょうたんコレクター」がいるようで、需要があったりします。

祭りで酒を入れて使ってくれる人がいます。

受けたらひょうたん栽培に勤しんでみます。

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金田一温泉

 横溝正史の探偵小説に出てくる金田一京助は、モデルが菊田一夫だといわれています。菊田一夫は、日本の劇作家・作詞家です。横溝の家の近くに、有名な言語学者金田一京助の弟が住んでいたので、菊田一にする予定の名探偵の姓が、金田一となり、名前も金田一京助をもじって耕助としたということです。

 モデルとなった金田一京助は、有名な言語学者で先祖は南部藩士です。南部家の一族・四戸氏から分かれ、金田一に領地を授けられたことから、金田一と名乗ることになったといわれています。

 二戸市金田一には湯田と呼ばれる温泉があります。昭和41年に湯田温泉の温泉旅館「緑風荘」の庭に、金田一京助の歌を刻み込んだ「金田一家祖宗発祥の地」という碑が建てられ除幕式が行われました。その夜の宴会で、金田一先生の記念碑ができたことをきっかけに、このさい名前を「金田一温泉」に変えてしまったらどうかという案が出て、それから湯田温泉ではなく金田一温泉となったそうです。

 さて、金田一温泉を舞台にしたミステリーに、吉村達也さんの「金田一温泉殺人事件」があります。金田一温泉に伝わる「座敷童子」が登場し、作者が考えた某温泉旅館に、なぜか座敷童子が登場する頻度が高くなっているというものです。そして座敷童子がトリックに使われます。

 あらすじは、東北の温泉宿、伝説の奥座敷で起きた惨劇を志垣警部が追うというものです。。被害者は十和田湖畔で、頭を丸坊主にされ唇には紅を塗られて殺されていました。そして第二の殺人は、座敷童子が出るという岩手県金田一温泉の宿で起こります。ナイフを突き立てられながら一滴の血も流さず息絶えた女の側から走り去る座敷童子が目撃されます。伝説に彩られた猟奇殺人の真相を求めて、志垣警部は豪雪の東北へむかいます。

 金田一という地名は、ミステリーファンにとって特別な地名です。ぜひ、もっとたくさんのミステリー作品で「金田一」が登場することを願っています。地元の皆さんも、ぜひ「金田一温泉殺人事件」を読んでほしいものです。

https://airinjuku.jp/kikou/kikou.html

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マタギ

マタギとは、陸奥や出羽地方の山間に住む猟師の呼び名です。一般な猟師やハンターとは違い、マタギ独自の言葉や習俗を持つ技能集団と考えられます。

山では仲間内でしかわからない山言葉を使い、山に入る際には、「山立根本記」という巻物を身に着けていることが知られています。マタギという呼び方は、南部藩、秋田藩、津軽藩での呼び方で、他地方では山漁師が一般的だったようです。

古くから里として知られる地域には、藩主などから交付された「狩猟免状」が残されていることが多く、江戸時代には「熊の胆」が良薬としての価値が非常に高値で取引され、マタギたちは各藩から優遇されたようです。

マタギの語源については定説はなく、色々な説があります。江戸時代の紀行家菅江真澄は、マダ(級・シナの木)の皮をはぐことから、「マダはぎ」が変わったものだといい、アイヌ語気源説とていしょうしています。

変わったところではインド起源説もあります。弘法大師が追いはぎに襲われた時に、追いはぎが大師の威厳に打たれて平状し、改心して元の鬼退治に戻ったということで、又鬼の名を賜ったなどというような話もあります。

マタギの祖先といわれる磐司万三郎が、日光の神様を助けたので猟をしてもよいことになったという伝承もあります。これは日光二荒山神社の縁起の変形であり、山寺立石寺の伝承にも関係しています。

マタギについて紹介されている文献には、マタギが東北全体に分布すると書かれているものがありますが、マタギという言葉は特に青森県、岩手県、秋田県に特有のものだと考えてよさそうです。江戸期には藩境を超えて自由に猟をしてもよかったようです。
民俗学では猟師を表す古語である「山立」の転訛だという説があります。修験道に関係のある言葉のようです。マタギの起源を記した「山立根本記」は天台密教系の物語を踏襲しているようです。

マタギ文化は、もともとあった原日本的文化(縄文文化)に宗教文化が混じったものかもしれません。現日本文化を縄文文化だとすれば、北東北のマタギ文化が残る理由も納得ですね。

https://airinjuku.jp/kikou/kikou.html

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イタリアから

布袋型の「ぐい飲み」をイタリアの方からお買い上げいただきました。

3年前の事です。

用途を聞いたところ、エスプレッソをこれでいただくんだそうです。

今回は修理と追加注文のようですが、修理の原因が電子レンジでない頃を祈っています。

https://airinjuku.jp/

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南部美人 純米吟醸 1800ml 岩手県 (株)南部美人

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相馬大作事件

講談などで知られる相馬大作事件。その主人公である相馬大作は、本名は下斗米将真です。「しもとまい・まさざね」と読みます。下斗米氏は本姓は平氏で、平将門の子孫である相馬師胤の末裔と伝わっています。
相馬師胤の8世の子孫である光胤の4男胤茂の子胤成が正平年間、南部氏につかえて南部氏の藩士となり、二戸郡の下斗米に住んだと伝わります。下斗米というのは、今の岩手県二戸市の中心地から数キロ西北にある地域ですが、ここに住みつき郷名を取って下斗米氏を名乗るようになったと思われます。伝説では下斗米を中心として、一日で回れる範囲を南部氏から与えられたと言います。その範囲は二戸市の下斗米から上斗米地域と重なります。

 胤成から数代を経て下斗米常高に至ります。下斗米宗兵衛常高(寛政六年1794年死去)は、蝋漆を扱う平野屋を興し一代で豪商となり、さらに安永年間数度の献金により二百石となります。常高の子が将真の父総兵衛です。
相馬大作こと下斗米将真は、陸奥国二戸郡福岡の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれました。将真は子供のころから活発な子供であったが、父母は病弱な兄に代わって将真に家督を継がせようとしますが、「家督は兄が継ぐべき」との思いから脱藩して江戸にでます。文化3年(1806年)のことです。に江戸に上った。江戸では実家の商売上のつきあいがあった日本橋室町ノ美濃屋に世話になった後、美濃屋の紹介で御徒士頭の夏目長右エ門に入門することにしました。
一年ほどで夏目が文化露寇への対応で仙台藩兵と共に択捉島に派遣を命じられると、次に平山行蔵に入門します。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになったのでした。

 そんな時に父が病気と聞いて帰郷し、文政元年(1818)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣を開設し近隣の若者を指導しました。実家の道場が狭くなってきたので、十月に近郷の金田一に移転します。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれています。

 その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わます。二戸市歴史民俗資料館には、遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されています。。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていましたが、将真も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたといいます。実際に蝦夷地にも足を延ばし、北方警備の重要性を痛感しました。この思想は、師匠の平山行蔵の影響が大きいと思われます。

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恋するデビー

映画を観た思い出と共に印象に残ったレコードです。

田舎の中学生にとっては、映画館に行くことさえ一大事業でした。今のようにインターネットもありませんでしたから、都会との文化格差は大きかったです。

「恋するデビー原題:You Light Up My Life)は、1977年8月31日公開の映画『マイ・ソング(英語版)』の主題歌でした。

今ではあまり知られていませんが、当時の人気はすごかったような記憶があります。

この曲を聴くと、花輪線に乗って盛岡まで映画を観に行ったことがなつかしく思い出されます。

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足沢口

鹿角街道を2時間ぐらい歩きました。

浄法寺~岩物~岡本~宮沢~天台寺口までです。

往復で2時間。

疲れたけど、心地良い汗でした。

自動車では見ることのない世界でした。

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