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恩師の遺品

数年前に、高校時代の恩師(校長)の遺品を引き取りました。

私が在学していた当時の写真や、校長の在学時の卒業アルバムなどです。

実は、この種のモノは地域の歴史を考える上で貴重な資料になりますね。

2600と言う数字は紀元2600年という意味ですね。

昭和15年のことです。

国防婦人会の写真などもあり、貴重な資料でした。

ちなみにこの恩師は、阪神タイガースの名野手・白坂長栄さんと同級生です。

https://airinjuku.jp/

cimg1856.jpg


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10年ぐらい前にインターネットで見つけた記事を残していました。

ネタ元のURLは、残念ながら失念してしまいました。

メモによると、盛岡藩は江戸時代には全国の半分以上を漆を生産したそうです。

生産の半分は運上金として藩に納めさせ、後の半分を物産問屋の下で、荷造樽を馬や引き舟、河川船、渡海船などの流通ルートに乗せ、江戸や大坂などに送ったとあります。

これらの過程で、江戸着の目方が7%減ったとの問屋からの申し出があり、独特な計量管理の跡も残ります。

揆籌という独特のがあったとも言われ、盛岡藩(八戸・七戸藩含む)で使用された南部枡の規格を表す文書に記録されています。

一合二勺五才は、方形三寸二分、深さ 一寸
二合五勺は、方形三寸七分、深さ一寸五分

揆籌規格の枡は、今のところ現物は見つかっていませんが、明治生まれの古老達は、普通よりも大きい升があったことを語っています。

平べったくて、容量も普通より約27%も多く入り、幕府容認の盛岡藩特有の枡であったようです。

漆は取引の段階では重量(目方)だが、藩の運上金納入記録は盃(杯)が使われてたようです。

霊前などに供える「一杯めし」は二合五勺で、山盛一杯の意味が含まれると言われます。

「一杯めし」を普通の枡で精米を計ってみると、約25~6%多くなり、揆籌規格の枡が基準になっていたかもしれません。

「盃」は、藩の取り決めで、次のように使用細目を決めていました。

「生漆」計量の場合、
(1)一盃の目方三二〇匁
(2)百盃の目方三二貫
(3)一駄 百盃入れ一つ
(4)一盃の値段九百文

「精製漆」計量の場合
(1)一盃の目方百六・七匁
(2)百盃の目方一〇貫六六七匁
(3)三百盃の目方三二貫
(4)一駄 百盃入れ三つ

これらから見ると、精製漆の比重は、三分の一になります。

南部枡の始まりは以下のように書かれています。

 南部大膳太夫領内通用舛、寛文八年五月津留書上之節、岡田豊前守
 様え御届申上候通、京舛通用仕候、尤、従京都差下候舛にては、領
 内手廣に付、末々迄行届兼、往古より舛方役人并職人共迄申付置、
 京舛本形に仕、入目相改仕足舛申付来候、以前之儀は相知不申候得
 共、天正年中より慶長初迄、越前国新保罷有候久末長右衛門と申者
 え、京都・大坂用事頼候付、京舛為相調差下候得共、前書に申上候
 通、手廣にて領内中行渡兼、右舛本形に仕、仕足舛申付用ひ来候得
 共、東照宮御治威己来御当地舛を本形に仕、当時共舛方役人共え為
 遂吟味、仕足舛申付儀、寛文八年津留等書上候己後、同年七月故大
 膳太夫重信参勤仕候節、前書之通往古より仕足舛申付来候趣、御面
 談御届申上候之処、御聞届被置候、舛恰好之儀は、往古より仕来之
 通、只今共に不相替申付置候、入目之儀は、本形舛之通相違無御座
 候、舛恰好并焼印共に、絵図之通御座候、以上、
   安永五年九月    

漆に関しては、現在の精製業者から聞くと、感覚的なものだが江戸時代の文献に間違いないそうです。

南部升の実物を見てみたいです。

https://airinjuku.jp/

落ち武者伝説 「大森左馬之助」

  昭和40年ごろに、上米沢の藤村シノさんが郷土史家の黒沢恒夫に語った落ち武者伝説を紹介します。

  「昔々、ずいぶん古い話だそうだども・・・」と語り始めたシノさんは、当時84歳とは思えない若さで、ちょっと耳が遠い以外は、いたって元気だったそうです。 「古い話といったらどれぐらい古い話ですか」と聞く黒沢氏に、「そうさなす、300年か400年前の話になるべすか」と元気に答えたそうです。 その話を要約すると次のように先祖から聞いたとのことです。
 「傷を負って来た武士を、この家の先祖が匿った。しかし数日後にその武士は亡くなった。死体を裏山に埋葬し、石の祠を建てて村中でサマノスケ様と敬称した」

  「この時に武士が持参した一尋ばかりの槍は藤村家で大切に伝えていたが、シノさんが嫁いできてから火事で焼け穂先だけになった。その穂先はいまは藤村家にはありません」
その穂先の所在は、令和の現在不明ですが、 サマノスケ様は今でも地域の人々に信仰されています。
このサマノスケ様は、大森左馬之助という武士とも伝えられ、その子孫は八戸氏に居住しているとのことです。毎年9月4日には先祖を拝む風習が伝わっています。

 大森左馬之助は、南部根記などにも記録が残る武将で、九戸政実とともに籠城した武将と推測されています。

https://airinjuku.jp/

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カシオペア歴史研究所

Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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