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明治天皇の行幸と牧羊事業

「金あるものは金を、労力あるものは労力を」

 明治維新を迎えた二戸地域の農村は、旧態然とした農法であり、これといった進歩を見ることはなかった。五穀を作り、野菜を植え、蚕を飼い、布を織り、藁細工が主な産業であった。漆は国内でも有数の産物であったが、地域全体を見れば、従事する者の割合は少ないのである。

 わずかに生産される米は貴重品であり、そのほとんどを換金し生活用品の購入に充てるといった自給自足の生活であった。

 明治7年県令(現在の県知事)は農家に養蚕を奨励した。同じころ会輔社の小保内定身は、殖産興業の必要性を痛感し、会輔社の社員とともに研究を始めた。

 その結果、桑、茶、楮、陸稲、天蚕などを試みて実践していた。中でも社員の蛇沼正恒は、牧羊事業が将来有望であることを唱えた。明治の世になり、日本人の服装も洋風になると、毛糸の重要が増えると考えたものであった。

 社員は綿羊事業のために積み立てを始め、明治9年には目標額に達したのでシナ種緬羊25頭を東京で購入し、そのうちの15頭を引き連れ5月23日に東京を出発、陸路を約一か月かけて陸奥福岡まで連れてきたのであった。松平錦水を牧羊師に雇い入れ、会輔社の敷地内で飼育を始めたのは明治9年6月のことであった。

 明治天皇が東北地方を御巡幸になられたのは明治9年のことであった。一戸のお泊りになったのが7月9日で、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、大隈重信など総勢250寧ほどの大行列であった。行在所は一戸村の金子茂八郎宅であった。
 福岡の会輔社では、陛下の御通輦の際には浪打峠の御野立所に陳列して地方の特産品や、住民の衣服食物を展覧に供することに決した。

 7月9日夜に小保内定身は、一戸村の明治天皇一行を訪ね、御用係の近藤芳樹に会った。定身はかつて近藤芳樹から学んだ仲であった。その際に木戸孝允に面会できた。その場で翌朝、木戸が会輔社を訪ねることが決まった。

 7月10日、木戸孝允、近藤芳樹、岸田吟香が定身の自宅を訪問した。三名とも定身とは旧知の間柄であり、木戸は明治政府に不満を抱くものがあれば、これを聞いて正論あれば、時によっては新政府に起用するとの考えから、時々このような行動に出ることがあった。

 定身は長州藩士の小倉健作の書いた鶴園梅花序や、九戸古城懐古詩などを見せたところ、木戸は「生涯の友に逢うが如し」と言って喜んだ。壁に掛けてあった西郷隆盛の書を見つけて七言絶句を書いたとも言われる。その書は南部藩勤皇派の東次郎から譲られたものであった。

 木戸孝允が会輔社を訪ねた理由は緬羊事業に興味があったからだ。陛下に羊肉を献上しようというので、前日に定身と蛇沼正恒は羊を率いて一戸まで行き手続きをしたが、責任者は料理の道具を持たないのと手続きの不備を理由に献上できなかった。しかし木戸はこのことを喜び、緬羊飼育は先見の明があるとして定身宅を訪問したものであった。

 羊肉の献上はならなかったが、福岡の御休所で緬羊を展覧させることが急遽決まり、県知事に達せられた。県知事は突然のことに驚いて、さっそく定身宅を訪ね準備をしたところ、その場に木戸孝允の姿を見つけて平伏したといわれる。

 木戸を迎えた定身は、浄法寺椀に稗飯を盛り、ゴボウとニシンを身にした「コクソ煮」でもてなしたが、稗飯に冷水をかけて最後の一粒まで食べた木戸の態度に流石苦労人だと驚いた。

 7月10日7時15分に一戸宿を御発輦、8時過ぎに浪打峠に御着、福岡宿の村井治兵衛邸には10時の到着であった。ここで定身の母喜恵の織った羊毛織物、会輔社で飼育していた緬羊一頭をご覧に入れた。

 この日の会輔社員は、松平錦水を先頭に緬羊を率いていて御休所で待機した。この日の陛下の機嫌は美しく緬羊をご覧になった。やがて緬羊事業の事業の責任者である松平錦水と蛇沼正恒に対して、「牧羊は国家的事業であるから益々盛大にせよ」というお言葉と、一金十円の御下賜金を賜った。

 明治14年に再度明治天皇の巡行があった。8月23日一戸からの御発輦だったが、浪打峠の御野立所、陳列所の整備、陳列品の収集などは会輔社員の手によってなされた。陳列品は郷土の化石類、農産物、麻服、稗飯、大麦濁酒などである。

 三葉松が描かれた御菓子を献上したところ、その松樹をご覧になりたいとの御内意が侍従より伝えられたので、末の松山から三枝を選び、小保内定身、下斗米簾八、国分閑吉、菅治平の四人が、三戸で御休息の陛下に献上した。この行動に対して天皇は会輔社にたいして金五十円を賜った。

 この時の大隈重信は、会輔社の事業に理解を示し産業振興のために金三万円を貸すことを申し出たが、定身はこれを辞退したといわれる。

 当初は会輔社の小保内定身宅で始められた緬羊事業は、後年は斗米上野を開墾し蛇沼牧場に移った。移住当初の上野蛇沼牧場は、狼が出没し被害が大きかった。緬羊の初生児はなかなか育たないので、自分の寝床に抱いて寝た。その苦労が実って最盛期には飼育数は300頭を超えたのであった。

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那須下野国の浄法寺

 群馬県と栃木県の地域は、古代には毛野国と呼ばれました。大和朝廷の勢力がこの地方に及ぶと、上野国と下野国に別れます。上野国緑野郡には浄法寺が建立されます。畠山重忠と関わりの深い一族の勢力下にあり、上野国浄法寺は関東地方における天台寺院として隆盛を極め現在に伝わります。

 那須下野国にも浄法寺が建立されたようです。那須地方では7世紀に入ると、大形の古墳にかわり小円墳や横穴墓が一定の場所に群をなしてつくられました。また、このころ、那須地方では、初めてこの地で仏教寺院が建立され浄法寺と呼ばれたようです。

 那須という地域は栃木県の北端に位置していて、古代の始めには下野国とは別の独立した那須国があったともいわれます。 畠山一族と関わりの深い武蔵七党の勢力範囲で、陸奥浄法寺氏との関連があったのは確実と思います。

 古代の史跡・遺跡が大変に多いところでもあります。多くの古墳に那須官衙遺跡、浄法寺廃寺などの古代寺院跡、そして「那須国造碑」は日本三古碑のひとつに挙げられています。

 何よりも陸奥国への入り口であり、蝦夷討伐の後方補給基地でした。江戸期にこの地を治めた大関氏の家臣浄法寺氏も、明らかに下野国浄法寺に関係した一族と思われます。

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濁り酒

昨夜のご褒美は、桃川の濁り酒。

桃川は、青森県南部の銘酒です。

北海道へのフェリーでは、夜間運航であれば必ず飲んでいます。

しめ鯖を肴に、皆さんもいかがですか。

桃川株式会社
〒039-2293
青森県上北郡おいらせ町上明堂112
TEL : 0178-52-2241
FAX : 0178-52-3145

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浄法寺の長慶天皇

  長慶天皇陵は全国各地にあるとされています。。長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇ですが、長らくその即位が疑問視されてきた幻の天皇でした。長慶天皇の在位・非在位をめぐっては江戸時代以来議論がありましたが、大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な在位説として評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされ、大正15年10月21日に詔書によって長慶天皇は

当時、天台寺や法光寺などへも調査が入ったらしく、資料も持ち帰ったとのことですが、その後はその資料等に調査結果は発表されていません。

 南北朝合一後も北朝打倒のために全国を行脚したともいわれ、天皇に関する伝説・伝承が各地に残されており、長慶天皇の陵墓とされるものは全国に100ヶ所以上あると言われています。

 天台寺の毘沙門堂の後方約50mほどの所には長慶天皇の御陵といわれる場所があり、天台寺伝わる伝承によると、長慶天皇は武家方の追求を逃れて伊勢から船出して陸奥に渡り塩釜に滞在し、その後は南部氏を頼って宮古にわたります。

 南部家では天台寺住職の導尊を侍従とし、導尊は天皇に付き添い、八戸、名久井、泉山などに滞在しました。

 その後、天皇が体調を崩したため長谷寺で療養したあとに、二戸市の福田に入り、山田に仮の御所を置いたが、病によりついに崩御したといいます。導尊は天皇の遺体を棺におさめて錦をかけ、夜中にこっそり天台寺に運び、毘沙門堂の背後にある丘上に土を深く掘り、棺を埋めて、その上に木炭を敷き詰め、目印に杉の木を植えたのだと伝わっています。

 大正期の調査では、天皇におかけになったと伝わる錦があり、宮内省の職員調査のために預かって行ったともいわれます。

 この天台寺伝説を証明するかのように、大正期の調査では、名久井岳周辺や天台寺周辺から提供された資料で、貨物列車いっぱいになったと記録に残されています。

 さてこの天台寺は、元々は土着の清水信仰の場所であったものを、安倍貞任につながる一族が信仰の仏教と結び付けて整備、天台仏教の陸奥での拠点としたものと考えています。平安末期までには奥中山以南までは大和朝廷の勢力圏でした。それ以北は未だに安倍の勢力圏であり、大和国と安倍の本領の境が二戸郡で、そこに開かれた天台寺は特別な意味を持つ場所だったかもしれません。

 源頼朝に平泉が滅ぼされ、安倍藤原の本領たる二戸郡には、上野国緑野の浄法寺にかかわりのある畠山一族がやってきます。そして安倍本領の精神的な寺を保護して復興したと考えられます。当然寺名は浄法寺だったはずです。

 鎌倉末期に南北朝が分裂し、北朝の勢力が陸奥二戸地方にも迫ってきます。畠山浄法寺氏は南部氏の助けを求めたはずです。そして正平8年に天台寺と名乗り、比叡山の名を借りて足利勢力に対抗したのかもしれません。

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移動販売の焼き鳥

匂いに誘われて焼き鳥を購入しました。

その場で日本食べて、八本を持ち帰りました。

今夜は、焼き鳥で濁り酒をいただきたいと思います。

新型コロナウイルスで、世間は何事も自粛ムードです。

せめて、持ち帰りで自宅宴会をしてください。

しかし、この自粛ムードは、個人的にはいかがなものかとおもいます。」

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酒茶剽

 明治39年2月のある日、第一回の卒業試験が行われるので、卒業予定者たちが中学最後の試験を受けるために、寄宿先で一生懸命勉強していた。

 その頃は、中学校開校を数年待って入学するものあり、中には妻帯するものもあって、公然と酒を飲む生徒も珍しくなかった。この時も深夜大いに盛り上がり、鉢巻をして勉強していたが、そのうちに尿意を催した一人が、二階の窓から放尿をしてしまった。

 運悪くその場に校長夫人が通りかかり、飛沫が夫人の袖にはねかかった。すぐに校長から舎監の小保内謙吾先生に取り調べが命ぜられた。

 小保内先生は生徒を自宅に呼びつけ、生徒を火とにらみし、「君たちはお茶を飲んだだろう。二階からお茶をこぼしただろう。それに相違ない。」と怒鳴りつけた。どうなることかと薄氷を踏む思いの一同は、ほっとして寄宿舎に帰った。

 酒を飲んだ上に、校長夫人に飛沫をかけたとなれば退学も免れない。酒豪の校長と小保内先生の機転であった。校長夫人にはとんだ災難であったが、校長の寛容により生徒たちは無事に試験を通過し、記念すべき第一回の卒業生として社会に巣立ったのである。

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感想(2件)


香港に自由を!

昭和46年の香港切手です。

このころは、日本はまだ中共とは国交がありませんでした。

香港は一種の独立国で、今よりも確実に自由を謳歌して、間違いなく幸せでした。

台湾も大陸の領有権を主張し、国連の常任理国は台湾の中華民国でした。

近頃は日本のマスコミがどこかに忖度して、香港情報が流れません。

インターネットで海外サイトを見ると、香港市民は自由のために頑張っているようです。

英国が香港奪回に行動を起こしたら、ぜひ後方支援を!

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テーマ : 昭和文化
ジャンル : サブカル

大人買い

古いものではありませんが、「柿の種」の缶入りを購入しました。

缶は、当然ながらコレクションです。

知り合いに、お菓子の缶だけ800個ぐらい集めやツワモノがいます。

なつかしいものもたくさんあります。

そんな彼を目指して取集を続けます。

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秋田の銘酒

今夜のご褒美に秋田の銘酒を購入です。

イワシの缶詰でいただいています。

ほろ酔いでブログを書いています。

缶のデザインも良いので、コレクションの仲間入りです。

全国の酒を飲み歩きたいです。

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桜餅

北海道の桜餅画像が届きました。

北海道で桜が咲いているわけではないでしょうが、北海道の桜餅もおいしいです。

子供のころは、このように洗練された食べ物はありませんでした。

最初に桜餅を見たときは、葉っぱをとって食べていました。

東京人からそのまま食べることを教わりました。

ほのかな塩味は、癖になる味ですね。

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プロフィール

カシオペア歴史研究所

Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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