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17世紀、すでに天皇は「エンペラー」だった

 江戸時代に来日した有名なシーボルトら3人の博物学者は、長崎の出島にちなんで「出島の三学者」と呼ばれます。

 「出島の三学者」の1人で、シーボルトよりも約130年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。ケンペルは1690年(元禄3)から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。

 この『日本誌』の中で、ケンペルは「日本には2人の皇帝がおり、その2人とは聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍である」と書いています。天皇とともに、将軍も「皇帝」とされています。1693年ごろに書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。

 ケンペルは日本の事情に精通しており、「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということ、さらにその歴史的な経緯をよく理解したうえで、天皇を「皇帝」としました。

 1716年にケンペルは死去します。その後、『日本誌』の遺稿はイギリスの収集家に売られ、1727年、その価値が認められて、『The History of Japan』というタイトルで英語訳で出版されます。この本は話題となり、フランス語、オランダ語にも翻訳出版され、ヨーロッパ中で大ヒット・ベストセラーとなりました。18世紀後半、ドゥニ・ディドロが『百科全書』を編纂(へんさん)した際、日本関連の情報のほとんどを『日本誌』に典拠したことが知られています。

 ケンペルの『日本誌』が普及したことで、日本の天皇および将軍が「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで完全に定着しました。

 こうした背景から、1853年、ペリーが黒船を率いてやって来たとき、天皇と将軍をともに「emperor(皇帝)」と呼んだのです。ペリーのみならず、日本にやって来た欧米各国の学者や外交官たちも天皇と将軍を「皇帝」と呼び、日本には「2人の皇帝が存在する」などと記録しています。

 また、ケンペルは『日本誌』の中で、天皇は紀元前660年に始まり、当時の1693年まで続いていることに触れ、「同じ一族の114人の長男の直系子孫たちが皇帝位を継承しており、この一族は日本国の創建者である天照大神の一族とされ、人々に深く敬われている」と説明しています。ケンペルは、皇統の「万世一系」が日本で重んじられていることに言及したのです。

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島津楢蔵物語 1

明治41年(1908年)初夏。名古屋の街を一人の青年が歩いていた。彼は精悍な顔立ちと大柄な体格で、若者らしく足早に道を急いでいた。青年はきちんと洋服を着て靴を履いていた。道行く人たちはそんな彼の洋服姿を珍しげにながめた。この頃、洋服を着ている人は非常に少なかったのだ。彼の名は島津楢蔵、20歳。この4月に奈良の学校を卒業して名古屋にある「豊田織機」に入社したばかりである。

 当時、日露戦争が終わって3年目。名古屋の町並みは現在では想像もつかないほど静かなものだった。通りを行くのは、歩行者と人力車、それに時折りみかける大八車くらいのもので、自転車さえ珍しかった。このころ、自動車やオートバイは日本中に数えるほどしかない。楢蔵は、先輩に書いてもらった地図をたよりにある家を捜していた。東区高岳町をあちこちと歩き回ったあげく、彼はようやくのことで目的の家を見つけることができた。大きな門には「棚橋医院」と書いた看板がかけてある。彼は立ち止まり、ポケットから取り出した手ぬぐいで汗をふいた。

 彼が「棚橋医院」に来たのは病気を診てもらうためではなかった。先日、会社の先輩が、この病院の先生のうわさ話をしていたのだ。それによると、ここの先生は自転車やオートバイが大層好きで、自分でもオートバイを所有しているとのことだった。その話を聞いたとき、楢蔵は是非いつか会ってみたいと思っていた。日がたつにつれ、彼の思いは募るばかりだった。そして今日、どうにも待ちきれなくなって訪ねてきたのだ。 楢蔵は門の外に立ったままそっと中をのぞいた。右手の病院らしい建物の前に自動車が2~3台並んでいた。彼はそれを見ただけで心臓がドキドキし、駆け寄ってみたい気持ちをおさえるのに苦労した。

 門をくぐると、左側「待合室」の札がかかった建物があった。入り口には外来患者達のゲタや草履がたくさん並べてある。楢蔵はこれほどおびただしい数のはきものの群をみたことがなかった。このことだけで、彼は自分が何か大変なところに来てしまったような気がして心細くなった。これだけの患者を集めることのできる棚橋鎌太郎という医者がどんな人物なのか、彼には容易に想像ができた。楢蔵はこんな忙しい時に来てしまったことをいささか後悔した。

 待合室の中は畳敷きになっていた。そこには入り口で見た履き物の数だけの患者たちが診察を待っていた。受付の看護婦さんに来意を告げる。 「島津と申します。先生に自動自転車のお話をうかがいたいと思って参りました。よろしくお取り次ぎ下さい」。 待合室の患者達は場違いな用件を告げる青年を不思議そうにみた。しばらくしてもどってきた看護婦さんは、彼に「診察室に入ってください」と言った。これほど簡単に会ってもらえるとは思ってもみなかっただけに楢蔵は驚いた。待合室のおくの部屋が診察室だ。ドアを開けると20畳ほどの広さの板敷きの部屋の中に何組かの机といすがあった。壁際には薬品や医療器具の棚がずらりと並んでいる。中では2人の医師と3人の書生らしき若者、そして4人ほどの看護婦がそれぞれ患者の相手をしていた。楢蔵は入り口に立ったまま、2人の医師のどちらかが目的の人物なのかなと見くらべた。看護婦の一人が近づいてきて、彼に少し待つように言った。「どの方が棚橋先生ですか?」 そう質問すると、看護婦はそんなことも知らないのかといいたげな顔をして彼を見た。「あの奥の窓際にいらっしゃる方がそうです」。 それだけいうと彼女はいそがしげにどこかへ行ってしまった。
 
 楢蔵は、謙太郎と教えられた人物を注意深く観察した。その先生は髪を少し長めに伸ばし、口ヒゲをたくわえた知的な顔立ちをしたまだ若い人だった。 鎌太郎は紋付き、羽織、袴を着てその上に白い上着を引っかけていた。この先生、西洋の新しい機会が大好きというのに、洋服だけは大嫌いだった。それでもオートバイに乗るときだけはしぶしぶ洋服に着替えていた。 鎌太郎はさきほどからイスにかけたまま一人の患者の眼をしきりにのぞき込んでいた。この先生の専門は眼科なのだ。棚橋鎌太郎は慶応4年生まれの41歳。愛知医学校を卒業後、同校の助教授、教授をつとめ。のちに自宅開業。この先生、本職の医者としての腕は第一級で眼科はもちろん、内科、外科となんでも専門だった。そればかりか、機械についても天才的なところがあった。写真機については明治20年頃からすでに愛用していたし、時計の修理などもお手の物だった。そして、本職のいしいじょう(?)にすぐれた腕前を見せるのは、自動車、オートバイなどの修理だった。 病院の入り口に並んでいた自動車はこの病院に修理のために来ているもので、いわば鎌太郎の「患車」なのだ。こうした患車たちはこの先生に病気をみてもらうために、遠く大阪などからもやって来る。大八車に乗せられてガラガラ運ばれてくるオートバイもあった。

 看護婦に何か指示を与えてから、鎌太郎は立ち上がって彼のもとにやってきた。「君ですか、自動自転車に興味があるというのは」。「島津です。お忙しいところを恐縮です」。「こちらに来ておかけ下さい。ただし見てのとおり患者さんがいっぱいなので診察しながら話をしますよ」。そう言って鎌太郎は彼を診察台の近くのイスに案内した。楢蔵の予想どおり、この先生はすばらしい人物だった。静かなものごしのどこにそんな情熱を秘めているのか、鎌太郎の言葉のひとことひとことに彼は圧倒された。楢蔵の知りたかったことや疑問点を鎌太郎は親切に解き明かしてくれた。前年から始まった英国マン島TTレースの話とかベルギーで市販されたFNフォアのこと、そして石川商会が輸入したトライアンフの売れ具合。山羽虎夫、内山駒之助など自動車を造っている人たちのことなど、話題はつきなかった。鎌太郎の方も、最初はただオートバイ好きの青年だと思っていた彼が、意外に熱心で深い知識を持っていることに驚いた。それもそのはず、楢蔵は少年の頃から機械、特にオートバイという乗物に大きな興味を持ち続けていたのだ。

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カフェの看板

ebayで見つけた看板です。

雰囲気が良いので入札しました。

無事に落札できればうれしいですが、結果はもう少し後になります。

それにしても、ebayにもチャイナの怪しい?業者が価格破壊をしています。

一言でいえば「作りすぎ」です。

結局、誰も利益を得ない結果となりそうです。

https://airinjuku.jp/

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カフェ開業の教科書―小規模で強い店をつくる

陸奥福岡への野球伝来

 福岡(二戸地方)に野球を伝えたのは誰でいつ頃のことであろうか。
 結論から言うと記録は発見されていないが、当時の人々の書き残した資料などからある程度は想像ができる。

 まずは、後年福岡町長を務めた川島一郎の回想録に「明治21年に小学校に入学した。そのころにはベースボールが盛んに行われていた」との記述がみられる。また、福岡町時代に歴史民俗資料館で古老から聞き取った記録に「明治18年頃に行われた」とある。

 これらの資料から明治20年頃には既に福岡の地で野球が行われていたことがわかる。盛岡への伝来(明治17年盛岡中学で行われた?)とほとんど同じである。

 明治7年頃、東京外国語学校(後東京英語学校で東京大学に発展)の生徒で、後に札幌農学校に進んだ大島正健の回想録に「上級学校である開成学校で行っている球技を同級生で見学した。羨ましく思い、手製のバットやボールを作って球技を真似てみた」とある。大島の同級生に田中舘愛橘がいた。大島の著書にも愛橘は登場する。二戸地方の人間で「ベースボール」と呼ばれる球技を最初に目撃したのは田中舘愛橘だったことは間違いない。

 日本体育協会が発行した「スポーツ100年」でも、明治初期に開成学校のアメリカ人教師・ウイルソンから愛橘が直接野球の指導を受けたことが書かれている。この明治7年頃は、会輔社の小保内喜代太が東京に勉学にでた年である。当然、旧知の間柄である愛橘とも会っていたはずである。愛橘日記にも喜代太ことが書かれている。

  ウイルソンの専門が数学(洋算)であった。喜代太の専門も洋算、物理、化学である。当時の外国人教師は、新聞社などの後援で公開授業(講演)を行っていたことなどを考えると、小保内喜代太と何らかの接点があったとしても不思議でない。現在よりも遙かにおおらかな時代である。想像でしかないが、喜代太も野球にふれたことであろう。

 喜代太は明治11年に帰郷し会輔社の教師に就任した。おそらくベースボールは新しい武芸とし僻村の人たちに受け入れられた。まさしく福岡に野球を伝えたのは、小保内喜代太を中心とした東京や盛岡などで学んだ明治10年代の会輔社関連の人物と思われる。

https://airinjuku.jp/jinbadai/jinbadai.html

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Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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