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ロシア切手

小学校から中学校にかけての段ボールが出てきました。

その中に切手収集帳が入っていました。

最初のページに入っていたのがロシア切手です。

学校の先生からもらったと思いますが、もしかしたら左翼だったのかもしれません。

でも、千島列島が日本領だと言っていたので、普通の日本人だったのかもしれません。

この切手でレーニンを知りました。

そういった意味では、この切手から世界の歴史に興味を持ったような気がします。

切手コレクションも1000枚以上はあると思います。

こちらのブログで紹介していきたいと思います。

切手のエピソードなど書き込んでいただければ幸いです。

https://airinjuku.jp/

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世界一高価な切手の物語 なぜ1セントの切手は950万ドルになったのか
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AJSカタログ

60年以上前のカタログが出てきました。

歴史的資料です。

1955年ですから65年前です。

コレクションにいかがでしょうか。

ヤフオク出品しています。

カシオペア歴史研究所

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1/10 プラモデル・模型 クラシックオートバイ【HARLEY CLASSIC MOTORCYCLE】

島津楢蔵物語 3

 夕方近くになって、ようやく診察が終わった.鎌太郎と楢蔵は連れ立って外に出た。楢蔵が先生の愛車を見せて欲しいとたのんだからだ。自動車が並べてある横を通り抜けるとその奥が先生の自宅になっていた。裏側に小さなガレージがあった。案内されて中をのぞくと、薄暗がりの中に真鍮製のタンクを輝かせたエールがいた。それはまるで手術器具のようにみがかれ、鈍く輝いていた。

 鎌太郎はよく見えるようにといってエールを外に出してくれた。そして、ひとつひとつの部品名とその働きを彼に説明した。このエール・カリフォルニアは当時のオートバイ先進国アメリカ製だった。エールというメーカーは今日ではほとんど知られていない。だが、当時エールは世界で最もすぐれたオートバイメーカーのひとつだった。「エンジンをかけてみましょうか」。そう言って鎌太郎は病室の方に向かって手を振った。たちまちバラバラと5人ほどの若者が駆けてきた。この病院の入院患者と書生たちだ。先生の助手として自動車の修理を手伝うのを何よりの楽しみとしていた。中には、入院中に修理を覚え、のちに自分で修理屋を始めた人も3~4人いたというから驚く。

 備え付けのスタンドが用意され、エールはその上に後輪をのせられた。タンクに燃料とオイルがそそがれる。当時ガソリンはまだ日本に入っていない。使われたのはスタンダードのミネラルコルザというガソリンまがいのものだった。この燃料は揮発性が高いので、そのころのヴェイパライザーと呼ばれる幼稚なサーフェイスキャブレーターにとって好都合だった。鎌太郎の手によってサドルの後ろのバッテーリーボックスに乾電池がセットされる。この乾電池はイグニッション用のもので先生の手製だった。当時市販の乾電池などは無い。この乾電池をつくるにあたり、鎌太郎は外国の技術雑誌を読んだり図書館に通ったりしてたいへんな苦労を重ねた。のちに大阪の屋井氏「屋井乾電池」という会社を設立するきっかけとなったのは鎌太郎の自作乾電池に影響されたからである。最後に小箱から取り出されたプラグがセットされた。このスーパープラグも先生の手製だった。それは絶縁物に雲母を利用して、工芸品と言っていいほど精密に作られていた。 

 これらの作業を楢蔵は立ちつくしたまま手品でも見るように茫然としてながめていた。着替えにいった鎌太郎が戻ってきた。上は紋付きにタスキがけ、下は白のメリヤス股引といったスタイルであった。やがて、全ての準備が整ったエールに先生がまたがった。後輪はスタンドしたままだ。燃料とオイルのコックが開かれた。リフターを操作しながら先生は勢いよくペダルをこぎ始めた。充分弾みのついたところでリフターを離す。「パン。パン!」と甲高い音を立ててエンジンが動きかける。皆、息を殺してそれを見守った。しばらくペダルを回し続けると、エンジンは安定した爆発を続けるようになった。取り囲んだ患者や書生たちから一斉に拍手がわく。

 楢蔵はエールをじっと見つめていた。この小さなエンジンはおそらく200cc位の排気量だろう。真鍮製のクランクケースがにぶい山吹色を放って美しかった。アウターホイールがコマのように回転している。オイルが焼ける匂いと排気ガスのあまい匂いが見守る者たちを静かに包み込んだ。

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戦後昭和の国産オートバイ史: 1950年台~1980年代末昭和期終焉まで、 国内における自動二輪車の社会的立ち位置とは (MyISBN - デザインエッグ社)

寒い

暖冬だと思っていましたが、ここ数日は寒い日が続いています。

マイナス15度ぐらいまで下がりました。

旭川ではマイナス30度との情報も伝わっています。

そう思えば、週末は雨の予報。

体調管理が難しいです。

ショウガ湯を飲んで乗り切ります。

カシオペア歴史研究所

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国産生姜使用 甘酢しょうが 平切 1kg【合成着色料・保存料 不使用】

宣教師たちは天皇をどのように呼んだのか? 

 戦国時代の16世紀にやって来たイエズス会の宣教師たちは天皇をどのように呼んでいたのでしょうか。

 フランシスコ・ザビエルとともに日本にやって来て、18年間、日本で宣教したコスメ・デ・トーレスは「日本には、聖権的な絶対指導者が存在する」と記録し、その存在を三人称的な「彼」と表記しています。的確な分析です。トーレスが「彼」としたのは天皇のことであると考えられています。

 織田信長と親交のあったルイス・フロイスは天皇を「Dairi」(ポルトガル語原文)と表現しています。「Dairi」とは 「内裏(だいり)」のことで天皇を指し示します。

 「天皇」という呼び名は、明治時代以降、一般化したものです。「天皇」はチャイナなどの対外向けに制定された漢語表現で、また、法的な称号でもあり、日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったのです。明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で対外向けの「天皇」を一般化させていきます。

 それ以前、天皇は御所を表す「内裏(だいり)」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門(みかど)」と呼ばれていました。「みかど」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、チャイナを意識した対外向けの表現であったと考えられます。

 こうした状況で、ルイス・フロイスは天皇を「Dairi」と表記しました。いずれにしても、16世紀の段階で、天皇を「エンペラー」とする表記はありませんでした。 (続 く)

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特産地鶏 青森シャモロック 正肉1羽(約1.0kg)とシャモロックスープセット
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Author:カシオペア歴史研究所
世捨て人です。人生も半分以上が経過しました。これまでの書き留めたこと、地域のこと、日本のことなどを、勝手に思いつくまま書いています。コメント歓迎。批判も大歓迎です。

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