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久慈次郎

飛田穂洲さんの著書を読み返しています。

以前は何とも思わなかったのですが、久慈次郎のことが記述されています。

久慈次郎が早稲田に在学中の監督が飛田穂洲でしたので、久慈次郎の人物像を良く描いています。

・打率は高くないけど、ここで打ってほしいと思う場面では必ず打った。

・右翼への打球が多く、ランナーを進めるバッティングは芸術的だった。

・シカゴ大学との試合で投手を志願して、飛田監督と大喧嘩をしたが、次の日から何事もなかったよう振舞った。

・チームメートを驚かせたのは、その食欲だった。

・一回の食事で他人の3倍の量をたべた。

本当に魅力的な人物だったようです。

昭和9年には全日本の主将としてアメリカ遠征に参加しました。この時のチームが巨人軍に発展しましたが、久慈次郎は参加しませんでした。

自分を育ててくれた函館のチームに残ったのです。

昭和11年には、福岡中学から明治大学に進んだ戸来誠投手とバッテリーを組んで、巨人軍と対戦します。

花巻球場での試合は0-1で敗れましたが、久慈次郎のリードは冴えわたったと伝わります。

日本野球史に残る選手です。

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島津楢蔵物語 5

「協力者たち」

 8月中に楢蔵は大阪に帰った。父の常太郎は、当時のほとんどの人がそうであったように、自動車やオートバイについては全く知識のない人だった。だが、楢蔵の計画には快く賛成してくれた。その上費用の面倒まで見てやろうと言ってくれた。仕事場は父親の「丹金商店」の工場の片隅を利用させてもらうことに決まり、翌日から早速仕事にかかった。彼はまず欧米のメーカー宛てに手紙を書いて、片端からカタログを送ってもらうことにした。次に鎌太郎からすすめられていたイギリスの「モーターサイクリングマニアル」誌と、アメリカの「サイエンスティフィックアメリカン」誌を取り寄せ、基礎研究の資料とすることにした。これらのほか図書館などからもできる限りの資料を集める努力を惜しまなかった。国内にはほとんど資料のない当時、名古屋を出るときに鎌太郎からプレゼントされたノートは貴重なものであった。

 工場の方の準備も着々と進んだ。西区江戸堀下通にある丹金工場の片隅を囲って、必要な機会工具類がそろえられていった。そして職長として25歳の猪内好文と、助手に宮内儀助少年を選んだ。小さな工場の入り口には「島津モーター研究所」の看板がかかげられた。早速仕事が開始された。楢蔵が図面を引き、それにしたがって猪内が旋盤やボール盤を使って部品を削りだしていった。エンジンは最初の予定どおり2ストロークで行くことにした。

 計画どおり行けば、空冷・76*87.5・396ccで1000回転回るはずだった。だが、この仕事は想像したよりはるかに困難なものだった。楢蔵は、まず材質の問題に突き当たった。彼は考えた末、当時よく仲を知られていた何人かの工学博士や専門家たちにたずねて見たりした。だが、彼らとてガソリンエンジンを造った経験はまったくなかった。結局は楢蔵自身で全ての問題を解決して行くほかなかった。既成のパーツは何ひとつ手にはいらない。乾電池、コイル、プラグ、気化器など必要な全てのパーツを作り出して行かなければならなかった。

 この頃ヨーロッパやアメリカでは、ボッシュ社の高圧マグネトーが普及し始めていた。このマグネトーを用いればこれまでの乾電池式のイグニッションよりはるかにエンジン性能が向上することがわかっていた。楢蔵はボッシュを輸入して使おうかと迷った。だが、よくよく考えて、やはり計画どおり全て自作のパーツを使った純国産エンジンにすることを目指した。

 そんな楢蔵のもとに、ある日名古屋の鎌太郎から手紙がとどいた。その激励の手紙の最後にこんなことが書かれていた。「先頃、東京の寺川ポンプ製作所では輸入エンジンを搭載した自動自転車を試作しました。これはトライアンフに型に似せたものです。それと横浜のズソール商会がフランスのプレシジョン3.5馬力エンジンを輸入したことをご存知ですか。このエンジンを使って、同じく横浜の自転車商高木喬盛館が、自動自転車を製作販売したそうです。これは評判が良く、何台かの注文がつづいているとのこと。わが国でも自動自転車の需要が少しずつではありますが増加する傾向にあるようです。貴君の目指す純国産自動自転車が、一日も早く完成することを待ち望んでいます」 手紙を読み終えて、楢蔵は自分以外にもオートバイを造ろうとしている人たちのいることを知った。そして、それを心強く思うとともに、国産第1号は何としても自分の手で、という決意を強めた。

 またたく間に夏は去り、秋から冬へと季節は移った。この間、いくつかの部品が完成したが失敗したものも多かった。構造的には単純な2ストロークエンジンが、逆に掃気や一次圧縮の点に複雑な問題がいくつもあることが分かったのだ。楢蔵はいまさらながらに2ストロークをあまく見すぎていたことを痛感した。

https://airinjuku.jp/nirinshi/006.html


戦艦金剛

  昭和40年代後半、田舎の小学校では普通に帝国海軍の戦艦が話題に上っていました。先生も戦時中は小学生で、地図で戦況をシミュレーションし、昭和18年ごろから日本軍の劣勢を感じたそうです。

  その先生から金剛という戦艦を教えられます。金剛の艦名は奈良県と大阪府の境にある金剛山にちなんだもので、計画時の名称では「伊号装甲巡洋艦」と呼ばれ、装甲巡洋艦として計画されていました。

  金剛は、日本の主力艦として初の超弩級艦であると同時に、改修に改修を重ねたのちは快速を誇る「高速戦艦」として、大東亜戦争のころは旧式化していながらも盛んな活躍を見せました。現代の海上自衛隊では、開発国アメリカ以外では世界初となるイージス艦のこんごう型護衛艦1番艦「こんごう」にその艦名が受け継がれています。

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明治30年の一戸消防組

二戸地方の中心地は福岡と一戸でした。一戸には商家や宿場も多く、奥州街道の宿場町として発展しました。

 明治時代、江戸の町火消は東京府に移管され、東京府は明治3年(1870年)に消防局を置き、町火消を改組し消防組としました。明治6年(1873年)に消防事務は内務省に移され、東京府下の消防は、翌明治7年(1873年)に新設された東京警視庁に移されたので、東京警視庁では、直ちに消防組に関する消防章程を制定しました。これが明治の消防の組織活動の基礎となりました。

 しかし、全国的には公設消防組は少なく、ほとんどが自治組織としての私設消防組であり、それも名だけというものが多かったのです。

 そこで、政府は社会の発展に即応する効率的な消防組織の育成を図るため、地方制度再編成を機会に、明治27年(1894年)に消防組規則(勅令第15号)を制定し、消防組を府県知事の管掌として全国的な統一を図りました。具体的な内容は、消防組は知事が職権をもって設置すべきもので、今までの既設の消防組を認めたり、また市町村が自ら組織したものを認可することではいけないという強硬な絶対的至上命令なもので、消防組は知事の警察権に掌握されながら、その費用は一切市町村で負担するべきものと規定されていました。

 施行後にも、消防組の設立は遅々として進まなかったものの、警察署長等の積極的な働きかけなどにより、大正時代末には飛躍的にその数が増大していくこととなりました。

 一戸町でも、明治30年に消防組に備え付けられた椀用ポンプの写真が残されています。当時の記録に、若者は先を競って消防組に志願したと残っています。消防組の颯爽とした姿は、若い娘に大人気だったそうです。

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