2023-07-31
西郷写真 その20
西郷写真と言われるのをまとめてみたいと思います。
まずは肖像画といわれるものです。

写真では無く肖像画です。
続いて江戸末期の人相書きです。
見る人が見れば人相書きといえるかもしれませんが、どう判断してよいか迷います。

一下の画像は時期、西郷写真発見と言われたものですが現在は別の人物だと判明しています。

一時期は西郷の写真と言われたモノで、右から2番目が小田原瑞哿(おだわらずいか)という島津家の医者説が有力です。

(次回へ続く)
https://airinjuku.web.fc2.com/
アウトドア用品【L-Breath】

まずは肖像画といわれるものです。

写真では無く肖像画です。
続いて江戸末期の人相書きです。
見る人が見れば人相書きといえるかもしれませんが、どう判断してよいか迷います。

一下の画像は時期、西郷写真発見と言われたものですが現在は別の人物だと判明しています。

一時期は西郷の写真と言われたモノで、右から2番目が小田原瑞哿(おだわらずいか)という島津家の医者説が有力です。

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2023-07-30
西郷写真 その19
真田太古は弘化2年とも4年生まれと伝わっています。
西暦でいうと1845/47-1891であり、真田太古は青年期に激動の明治維新をむかえた。
三戸郡関村の神職であり、鉱山開発や近隣の若者に読み書きを教えたともいわれています。
千島開発の野心もあったようです。
明治10年、西南戦争を好機として青森県庁などの襲撃を計画しましたが、同志の密告により逮捕・投獄されました。
出獄後、数年たったころに北海道で反政府活動をおこない再び捕らえられて投獄され、明治24年4月28日に獄死します。
当時の新聞には、名は大幸、泰古、泰幸などとも書かれています。
いつの頃かは不明ですが、西郷の影武者と言われた永山弥一郎と知り合ったようです。
残された資料が少ないため、真田事件の調査は進んでいませんが、徐々にその全容が研究者によって発表されています。
実娘と関係のあった馬場清氏の著書を入手したので、自分なりに三枚に下ろしたいと思っています。
https://airinjuku.web.fc2.com/


西暦でいうと1845/47-1891であり、真田太古は青年期に激動の明治維新をむかえた。
三戸郡関村の神職であり、鉱山開発や近隣の若者に読み書きを教えたともいわれています。
千島開発の野心もあったようです。
明治10年、西南戦争を好機として青森県庁などの襲撃を計画しましたが、同志の密告により逮捕・投獄されました。
出獄後、数年たったころに北海道で反政府活動をおこない再び捕らえられて投獄され、明治24年4月28日に獄死します。
当時の新聞には、名は大幸、泰古、泰幸などとも書かれています。
いつの頃かは不明ですが、西郷の影武者と言われた永山弥一郎と知り合ったようです。
残された資料が少ないため、真田事件の調査は進んでいませんが、徐々にその全容が研究者によって発表されています。
実娘と関係のあった馬場清氏の著書を入手したので、自分なりに三枚に下ろしたいと思っています。
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2023-07-29
西郷写真 その18
明治10年2月に西郷隆盛を中心として起こった反政府運動がいわゆる西南戦争です。
これに呼応して、明治10年5月に青森県三戸郡、岩手県二戸郡、秋田県鹿角郡の旧南部藩士たちも政府転覆計画を起こします。
これは三戸郡田子町の真田大古(泰幸、太古)を首謀者とする怪事件でした。
その計画を簡単に説明すると、5月17日に一派は青森分営を襲い兵器や弾薬を奪い、県庁を撃ち公金を奪う。
別の一派は鹿角地方の金山を襲い、七戸、五戸、三戸を扇動して福岡(二戸)を経て浄法寺に入り、南部領内随一の豪農小田島勘治を説得(脅し)して資金を出させ、鹿角方面の一派と合流し盛岡に入り、賛同者を募り仙台鎮台を破り、東京に入らんとするするものでした。
この計画は会輔社(二戸市)の社員・岩館迂太郎の密書により岩手県警察の知るところとなり、青森、秋田の三警察共同捜査により、5月12日に首謀者が逮捕され未然に防がれたのでした。
この事件の檄文を書いたのが小田為綱です。
彼の明治11年日記によると、この事件の背後には西郷一派のはたらきかけがあったと見られます。
南部藩佐幕派の首領楢山佐渡の参謀であった那珂通高は、真田事件を事前に知っており、福岡(二戸市)の会輔社代表小保内定身に明治10年2月1日付けで手紙を送り、反真田運動を奨めます。
この際、小保内定身は表だった動きを見せていませんが、同士とも言うべき岩館迂太郎が県に密書を送ったり、会輔社の下斗米与八郎を実情調査のために鹿角方面に差し向けています。
また、西郷決起を聞いた際には「私の体を投げ打つには他人の勧誘は受けない。西郷が皇室に対して不忠の心があれば別だが、ただ政府内の意見が異なった為のものである。」といって、西郷討伐にはやる社員をなだめたと伝えています。
下の画像は小保内定身のものです。

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これに呼応して、明治10年5月に青森県三戸郡、岩手県二戸郡、秋田県鹿角郡の旧南部藩士たちも政府転覆計画を起こします。
これは三戸郡田子町の真田大古(泰幸、太古)を首謀者とする怪事件でした。
その計画を簡単に説明すると、5月17日に一派は青森分営を襲い兵器や弾薬を奪い、県庁を撃ち公金を奪う。
別の一派は鹿角地方の金山を襲い、七戸、五戸、三戸を扇動して福岡(二戸)を経て浄法寺に入り、南部領内随一の豪農小田島勘治を説得(脅し)して資金を出させ、鹿角方面の一派と合流し盛岡に入り、賛同者を募り仙台鎮台を破り、東京に入らんとするするものでした。
この計画は会輔社(二戸市)の社員・岩館迂太郎の密書により岩手県警察の知るところとなり、青森、秋田の三警察共同捜査により、5月12日に首謀者が逮捕され未然に防がれたのでした。
この事件の檄文を書いたのが小田為綱です。
彼の明治11年日記によると、この事件の背後には西郷一派のはたらきかけがあったと見られます。
南部藩佐幕派の首領楢山佐渡の参謀であった那珂通高は、真田事件を事前に知っており、福岡(二戸市)の会輔社代表小保内定身に明治10年2月1日付けで手紙を送り、反真田運動を奨めます。
この際、小保内定身は表だった動きを見せていませんが、同士とも言うべき岩館迂太郎が県に密書を送ったり、会輔社の下斗米与八郎を実情調査のために鹿角方面に差し向けています。
また、西郷決起を聞いた際には「私の体を投げ打つには他人の勧誘は受けない。西郷が皇室に対して不忠の心があれば別だが、ただ政府内の意見が異なった為のものである。」といって、西郷討伐にはやる社員をなだめたと伝えています。
下の画像は小保内定身のものです。

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2023-07-28
西郷写真 その17
古写真鑑定家の小沢健志氏によれば、この写真は明治7年頃に東京で撮影されたものではないかとのこと。
小保内家でこの時代に東京にいた人物としては小保内喜代太が考えられます。
喜代太は嘉永5年(1852)に生まれました。
父は會輔社を創設した小保内孫陸で兄は小保内定身でます。
明治7年頃には上京して洋算、物理、化学などを学びます。
明治11年には帰郷し地域の青年達に新しい学問を教えたのでした。
どのような理由でこの写真が写されたのかは謎ですが、この写真に写っているのが會輔社の小保内(生保内)喜代太だとすると、
二戸地方を含む馬淵川流域の人々が西郷一派と交流があったという新しい発見となるかもしれません。
下の写真は永山弥一郎のものです。

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小保内家でこの時代に東京にいた人物としては小保内喜代太が考えられます。
喜代太は嘉永5年(1852)に生まれました。
父は會輔社を創設した小保内孫陸で兄は小保内定身でます。
明治7年頃には上京して洋算、物理、化学などを学びます。
明治11年には帰郷し地域の青年達に新しい学問を教えたのでした。
どのような理由でこの写真が写されたのかは謎ですが、この写真に写っているのが會輔社の小保内(生保内)喜代太だとすると、
二戸地方を含む馬淵川流域の人々が西郷一派と交流があったという新しい発見となるかもしれません。
下の写真は永山弥一郎のものです。

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2023-07-27
西郷写真 その15
自分なりにこれまでの調査や提供された情報をもとに仮説をたててみたいと思います。
まずは向かって右側の人物は永山弥一郎に間違いありません。
西郷兄弟の代理として活動していたために「西郷隆盛」「西郷従道(本名は隆道)」と書かれていたものと推測されます。
後列中央の人物は西郷吉之助と書かれています。
その下に「隆永(隆盛の本名)」と書かれています。
隆永が西郷吉之助を説明したものなのか、前列に写っている子供のことなのかで解釈が違ってきます。
中央の人物が一緒に写っている永山より年長かどうかで人物が特定できるかもしれません。
個人的には年長には見えませんので西郷隆盛末弟の西郷小兵かと思われます。
年長者とすると西郷隆盛の写真である可能性は捨て切れません。
向かって左側に人物は個人的には非常に興味があります。
會輔舎(會輔社のこと?)の生保内(小保内)とすれば、二戸地方にとっては非常に重要な意味を持ってくるでしょう。
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まずは向かって右側の人物は永山弥一郎に間違いありません。
西郷兄弟の代理として活動していたために「西郷隆盛」「西郷従道(本名は隆道)」と書かれていたものと推測されます。
後列中央の人物は西郷吉之助と書かれています。
その下に「隆永(隆盛の本名)」と書かれています。
隆永が西郷吉之助を説明したものなのか、前列に写っている子供のことなのかで解釈が違ってきます。
中央の人物が一緒に写っている永山より年長かどうかで人物が特定できるかもしれません。
個人的には年長には見えませんので西郷隆盛末弟の西郷小兵かと思われます。
年長者とすると西郷隆盛の写真である可能性は捨て切れません。
向かって左側に人物は個人的には非常に興味があります。
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2023-07-26
西郷写真 その14
実話ナックルズ平成21年9月号に例の「西郷写真」が掲載されました。
写真と文章を提供した先はノンフィクション作家の斉藤充功氏です。
実は斉藤氏は平成21年6月に二戸を訪れています。
目的は「西郷写真」についての調査でした。
二戸パークホテル前の「あらや」で南部美人を飲みながら語り明かしました。
斉藤氏については、陸軍中野学校関係の著作が多くあり以前から愛読させて頂いていました。
また、恩師が中野学校の二俣分校で学んだことがあり当時の合理的な思想を聞いていたこともあり、中野学校をキーワードに話が弾みました。

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実は斉藤氏は平成21年6月に二戸を訪れています。
目的は「西郷写真」についての調査でした。
二戸パークホテル前の「あらや」で南部美人を飲みながら語り明かしました。
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2023-07-25
西郷写真 その13
それでは西郷一派と南部藩の関係を考えてみます。
最後の八戸藩主南部信順は、薩摩藩主・島津重豪の十四男として生まれました。
幼名は虎之助、篤之丞で、初名は久命でした。
天保9年(1838年)に八戸藩の第8代藩主南部信真の婿養子として迎えられまっす。
重豪の息子たちの養子先は、中津藩や福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩で、2万石しかない小藩八戸藩への養子は異例といえます。
信順は有名なお由羅騒動では、島津斉彬が薩摩藩主を継ぐよう実兄の黒田斉溥とともに尽力したといいます。
なぜ島津重豪が、北辺の小藩八戸藩へ五男信順を養子にやったのかはよくわからないようです。
薩摩からから八戸へというと、遠隔地の縁組のように現代人には思えますが、すべて各藩の江戸屋敷が舞台でした。
だから鹿児島から八戸でもあり得ることだと言われます。
一説には相撲が取り持ったともいわれています。
信順が南部家に婿入りして30年後、戊辰戦争に遭遇し、奥羽列藩同盟の一員として実家島津家の軍を迎えることになります。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、八戸藩は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けました。
信順の実家が列藩同盟の敵方・薩摩藩であったために、同盟側から仮想敵として見られていたといいます。
信順は列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方で官軍側に立った久保田藩と密かに連携するなど、この難局を上手く乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功します。
八戸南部藩は戊辰戦争のとき奥羽越列藩同盟に加盟しながら、薩摩藩島津氏からの情報で天皇方につくべきか藩内で議論していたといわれます。
この消極的な態度が結果的には幸いします。
戊辰戦争では一応は奥羽越列藩同盟へ加入し、野辺地戦争に参加しますが、戦後処理においては私闘とされ懲罰の対象にはならに済んだのです。
信順は明治2年(1869年)6月22日には八戸藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により知藩事職を辞任。
同年に家督を長男の栄信に譲り、明治5年(1872年)に死去します。
幕末の八戸南部藩の動向は「西郷写真の謎」を解く鍵になるかもしれないと思っています。

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最後の八戸藩主南部信順は、薩摩藩主・島津重豪の十四男として生まれました。
幼名は虎之助、篤之丞で、初名は久命でした。
天保9年(1838年)に八戸藩の第8代藩主南部信真の婿養子として迎えられまっす。
重豪の息子たちの養子先は、中津藩や福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩で、2万石しかない小藩八戸藩への養子は異例といえます。
信順は有名なお由羅騒動では、島津斉彬が薩摩藩主を継ぐよう実兄の黒田斉溥とともに尽力したといいます。
なぜ島津重豪が、北辺の小藩八戸藩へ五男信順を養子にやったのかはよくわからないようです。
薩摩からから八戸へというと、遠隔地の縁組のように現代人には思えますが、すべて各藩の江戸屋敷が舞台でした。
だから鹿児島から八戸でもあり得ることだと言われます。
一説には相撲が取り持ったともいわれています。
信順が南部家に婿入りして30年後、戊辰戦争に遭遇し、奥羽列藩同盟の一員として実家島津家の軍を迎えることになります。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、八戸藩は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けました。
信順の実家が列藩同盟の敵方・薩摩藩であったために、同盟側から仮想敵として見られていたといいます。
信順は列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方で官軍側に立った久保田藩と密かに連携するなど、この難局を上手く乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功します。
八戸南部藩は戊辰戦争のとき奥羽越列藩同盟に加盟しながら、薩摩藩島津氏からの情報で天皇方につくべきか藩内で議論していたといわれます。
この消極的な態度が結果的には幸いします。
戊辰戦争では一応は奥羽越列藩同盟へ加入し、野辺地戦争に参加しますが、戦後処理においては私闘とされ懲罰の対象にはならに済んだのです。
信順は明治2年(1869年)6月22日には八戸藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により知藩事職を辞任。
同年に家督を長男の栄信に譲り、明治5年(1872年)に死去します。
幕末の八戸南部藩の動向は「西郷写真の謎」を解く鍵になるかもしれないと思っています。

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2023-07-25
西郷写真 その12
これで少なくても3枚の同様の写真が馬淵川流域に存在したことが予想されます。
1枚は私がフリーマーケットで発見した物。
1枚は八戸の栃内氏関係の左右が反対に現像された写真。
そして「一億人の昭和史 明治編」に掲載された旧八戸藩士の所有していた写真です。
もっとも、この旧八戸藩士が栃内氏であれば、2枚ということになりますが、左右逆に写っていることから別な物のと考えるのが妥当です。
何気なく「カシオペア連邦と西郷隆盛」をホームページで公開したときは、ちょっとした話題づくりのつもりだったのですが、こうして関連資料や南部藩(盛岡、八戸)士の動き、幕末の志士たちの動向を調べると謎が謎を呼んで抜けられそうもありません。
↓の画像は一時期西郷隆盛が写っていると話題になったものです。
現在では別の人物とされています。

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1枚は私がフリーマーケットで発見した物。
1枚は八戸の栃内氏関係の左右が反対に現像された写真。
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もっとも、この旧八戸藩士が栃内氏であれば、2枚ということになりますが、左右逆に写っていることから別な物のと考えるのが妥当です。
何気なく「カシオペア連邦と西郷隆盛」をホームページで公開したときは、ちょっとした話題づくりのつもりだったのですが、こうして関連資料や南部藩(盛岡、八戸)士の動き、幕末の志士たちの動向を調べると謎が謎を呼んで抜けられそうもありません。
↓の画像は一時期西郷隆盛が写っていると話題になったものです。
現在では別の人物とされています。

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2023-07-24
西郷写真 その11
ある日、例の西郷写真が掲載されている資料を見つけました。
以前からその写真が何かの雑誌に掲載されているらしいことは知っていましたが、
別な調べ物の資料として購入した中にその写真を見つけたときは何か運命を感じてしまいました。
その雑誌は毎日新聞社が昭和52年(1977)に発行した「一億人の昭和史 明治編」の中にありました。

「悲運に倒れた革命の志士」と題して29頁に掲載されています。
その写真は「裏書きに、右西郷隆盛、中西郷小兵衛と書いてある。他の西郷像に似てないが、西南戦争に呼応して挙兵を企てた旧八戸藩士の持っていた写真」と説明されています。
その旧八戸藩士が誰なのか書かれていないのが残念です。

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以前からその写真が何かの雑誌に掲載されているらしいことは知っていましたが、
別な調べ物の資料として購入した中にその写真を見つけたときは何か運命を感じてしまいました。
その雑誌は毎日新聞社が昭和52年(1977)に発行した「一億人の昭和史 明治編」の中にありました。

「悲運に倒れた革命の志士」と題して29頁に掲載されています。
その写真は「裏書きに、右西郷隆盛、中西郷小兵衛と書いてある。他の西郷像に似てないが、西南戦争に呼応して挙兵を企てた旧八戸藩士の持っていた写真」と説明されています。
その旧八戸藩士が誰なのか書かれていないのが残念です。

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2023-07-23
西郷写真 その10
2007年の春に青森県八戸市のIさんから西郷写真についての情報をいただきました。
そのときに添付されたのが下の画像です、

某社で発行した書籍からの抜粋で、私が見つけた写真とは反対に現像されています。
服装から判断して私の見つけた写真の方が正しく現像されているものと思われます。
やはり、私の予想通り「真田事件」に関連した写真であり、永山が西郷隆盛、中央の人物が西郷小兵衛(隆盛の末弟)とされています。
残念ながらもう一人の人物については記載がありません。
I氏はこの写真の出所は八戸で幕末期に私塾を開いた栃内氏関係からのものと推測していました。
八戸のI氏からこの情報をいただいたことにより、私がフリーマーケット見つけた写真がもしかしたら「西郷一派と會輔社」を結びつける大発見になるかもしれない思いに駆られました。
少なくても馬淵川流域で同じような写真が出回っていたのです。
一般的に「真田事件」は事前に察知され未遂に終わっているのでそれ程注目されていませんが、その計画性や賛同者の数などを考えると、北奥と鹿児島で反乱軍が決起したならば日本の歴史が変わっていた可能性も否定できないのです。
どうしても「西郷隆盛の写真」に人々の注目が集まる傾向になりがちですが、写真の中に本物の西郷隆盛が写っていないとしても、明治初期にカシオペア地方を含む馬淵川流域の志士?たちが何らかの形で維新最大の功労者である西郷一派とつながっていることが重要な意味を持つような気がします。
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そのときに添付されたのが下の画像です、

某社で発行した書籍からの抜粋で、私が見つけた写真とは反対に現像されています。
服装から判断して私の見つけた写真の方が正しく現像されているものと思われます。
やはり、私の予想通り「真田事件」に関連した写真であり、永山が西郷隆盛、中央の人物が西郷小兵衛(隆盛の末弟)とされています。
残念ながらもう一人の人物については記載がありません。
I氏はこの写真の出所は八戸で幕末期に私塾を開いた栃内氏関係からのものと推測していました。
八戸のI氏からこの情報をいただいたことにより、私がフリーマーケット見つけた写真がもしかしたら「西郷一派と會輔社」を結びつける大発見になるかもしれない思いに駆られました。
少なくても馬淵川流域で同じような写真が出回っていたのです。
一般的に「真田事件」は事前に察知され未遂に終わっているのでそれ程注目されていませんが、その計画性や賛同者の数などを考えると、北奥と鹿児島で反乱軍が決起したならば日本の歴史が変わっていた可能性も否定できないのです。
どうしても「西郷隆盛の写真」に人々の注目が集まる傾向になりがちですが、写真の中に本物の西郷隆盛が写っていないとしても、明治初期にカシオペア地方を含む馬淵川流域の志士?たちが何らかの形で維新最大の功労者である西郷一派とつながっていることが重要な意味を持つような気がします。
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