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龍岩寺の墓

 浄法寺氏の家臣の一人勝又氏は、浄法寺氏没落後の一時期、鹿角や大館方面に逃れ、その後は浄法寺氏の家臣団に二戸方面で新田開発が許されて浄法寺方面に帰参した。

一族の中から剣術の素質のあるものが出て、毛馬内で剣術を教えていた。この勝又の流派は花輪の関右平太に譲ったという。この右平太の息子が良輔 で、相馬大作(下斗米秀之進)に師事し、その片腕となって白沢で津軽藩主を襲撃、失敗して江戸に逃れたが、幕府に捕えられ、下斗米将真と共に小塚原で刑死、獄門になった。わずか23才であった。

  良助は本姓を小田島といった。花輪の商家で生まれたが、浄法寺の関家に養子に入り士分に取り立てられた。母の実家が福岡の原田氏で、幼少の頃より陸奥福岡で学んだ。

その時期は、下斗米将真が金田一に兵聖閣を開き地域の子弟に「実用流」を伝授した。良助も兵聖閣で学び、すぐに頭角を現した。

この関良助の名は、大作の名にかくれて、陸奥福岡、陸奥浄法寺や鹿角の人でも知らない人も多い。なぜ下斗米将真が、良助を第一の弟子として津軽公の襲撃に加わったかは伝わっていまし。事の正否はともかくとして、その純真な心意気を後世に伝えたいものだ。

処刑されてから約40年後に明治維新が起こった。生きていれば当然、幕末期の会輔社に参加していたはずで、小保内定身の師として活躍したと思われる。

良助は下斗米将真と一緒に処刑された。昭和四十五年、回向院の了解を得て御墓を先生の菩提寺当龍岩寺に移した。将真先生・関良助・下斗米惣蔵・一條小太郎の四氏の塔は義挙を共にした同志の人々を弔うためものである。これらの碑と塔は大正十一年当地方の多くの人々の協力により信直公の御葬礼場趾に建てられたが、大作先生の御墓を迎えたときここに移したのである。

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